昨日の刻みネギの行く末。
... いやぁー野毛って奥が深いんですねぇー 相変わらず話しがそれましたが、 昨日のブログでアップした こちらの刻みネギの行く末ですが。 あ、私は1パックしかもらって来ておりません。 また明日もらってもいいので。 ...

刻みネギの幸せ
冷蔵庫に常備してある刻みネギ。納豆を食べるとか、うどんを食べるとか、そのためにネギを少し刻むのは面倒なのでまとめて刻んでおく。冷蔵庫に入れておいたら3~4日はもつ。ほんのひとつまみのネギでもあるのとないのとでは大違い。 ...

タラコ豆腐
... 薄目に切った絹ごし豆腐と茹でたほうれん草、ほぐしたタラコを入れて、仕上げに刻みネギを入れる。豆腐から水分が出るので、とろみを強めにしておくのがポイント。 『道絶えずば、また』のゲラを見て、ああ、こりゃ全面書き替えだ!と思ったのだけれど ...

阪急そば@西宮北口駅
... モーニングですなあ(笑) 朝定食 380円 うどん・そばにはワカメ・天かす・カマボコ・刻みネギのトッピング この出し巻き玉子はメチャ美味しいですよ。 ご馳走さまでした!! 西宮市高松町6-20 0798-64-3110 07:00~20:30 年末年始のみ休み ブログ ...

ねぎっ庫キャセロール(刻みネギの保存)
... ニューねぎっ庫キャセロール 夏になると、冷奴、素麺、うどん、納豆(最後のほうは季節関係ないけど)と 刻みネギの需要がぐーんと増えますよね。 ずぼらな私は、刻んでタッパーに入れておいたり、 それを冷凍したりしていたのですが、 すぐに傷んだり ...

琵琶湖一周行き当たりばっ旅 〜2日目(by Hana Hajimeさん)
1.自衛隊の演習に遭遇
飲んで帰って風呂にも入らずにベットに沈没したものだから、朝は、早く目が覚めた。風呂の用意をして、ゆっくり風呂に入る。7時から1階のレストラン料理天国で朝食バイキング。河豚の干物や雑魚の山椒煮、蒟蒻のピリ辛煮、卵焼き、などで、琵琶湖ならでは今津ならではの食材が無かったのが残念だが普通に旨い。
食事をしながら、窓の外を何かが横切った気がして、ふと外を見ると100人ほどの自衛隊員が宿と琵琶湖の間にある公園にたむろしている。小銃やバズーカ砲のようなものまで、兵器を装備した100人の迷彩服の集団に空恐ろしさを感じたのは、僕だけだったのだろうか。そういえば、ここ高島市今津には、陸上自衛隊第3特科連隊の大隊駐屯地があり、バズーカ砲が民家の軒先に届くような市街地演習が行われていることが問題となりニュースとなったことがあった。今日もどうやら徒歩訓練をこの地域でやるようである。たぶん空砲なのだろうが、朝飯を食っている僕の方に銃口が向くのは気持ちのいいものではない。そそくさと朝飯をすませて部屋に戻る。西の窓から外を見ると、ホテル北側の用水路の向こうを80人くらいと思われる一団が等間隔で歩いている。地元の人たちはこの風景をどのように見ているのだろうか。憲法9条を改悪しようという政府の動きを考えると、戦争と無縁だった戦後日本の平和がもろくも崩れていくのではないかという恐怖と、眼前の武装した自衛隊の訓練風景が重なり思わず身震いし慌てて窓を閉めた。
ちょっと暗い気持ちになったが、気を取り直し、今日の計画を練り直すことにした。
2.今津浜〜奥琵琶湖
もとの計画では、今日は来た道を大津まで戻り、紫式部縁の石山寺を散策する予定だったが、急に思いついて、
「そうだ!琵琶湖を一周しよう。」
と決意した。進行方向が違うので、目の前の景色は違って見えるのかもしれないけれど、来たところを戻るのでは能がない。日本一の湖をこの際一回りするのも良いかもしれないと思ったのだった。
ホテルを出て、湖岸道路に出、今津浜で松林の中に車を止め琵琶湖の自然を楽しむ。花の写真を撮り、トノサマガエルを追いかけしていたら、あやうく蛇を踏みそうになってドキッとした。体長1メートル50センチくらいはあったろうか、大きなシマヘビである。僕が佇んでいると、茂みの中に姿を消した。僕がおなかの中にいる時に、お袋さんが蛇に驚いたことがあり、そのせいかどうか定かではないが、僕は蛇が苦手である。蛇から逃げるように今津浜に別れを告げ、奥琵琶湖をめざす。
マキノ町に入ると何故だか寺が多く、萬明寺、蓮光寺、誓行寺、願慶寺、最勝寺などの寺名を見つけることができる。今津のあたりは平野が広がっていたけれど、マキノまで来ると、山が湖岸線まで迫ってきており、道は右に左にうねり見通しの悪いカーブが続く。所々、道幅広くなっているところなどに車が止められているが、Basser達がバス釣りに興じ、陸っぱりにボート、思い思いのスタイルで竿を振っている。時々、生簀のような網の仕掛けが見えるが、湖魚を料亭にでも卸しているのだろうか。
大浦を過ぎると湖岸道路は奥琵琶湖パークウェイと呼ぶらしい。大きな湾の中に本格的な生簀がしつらえてあり、船で乗りつけて何かの作業をしているのが見える。湖面の青、山の緑、湖面に映る雲の白、白い船、静かな、静かな風景である。やがて、湖岸の菅浦の集落に入る道と九十九折れの山道に入る分岐に出る。迷わず山に向かう道に入る。この道は一方通行になっており、僕はまっすぐ進むので問題はないんだけれど、上まで登ってまた、こちらに下りてきたい人はどうすればいいのだろうかと心配になる。いくつかのカーブを曲がったところで琵琶湖側の視界が開け、菅浦の集落を見下ろすことができた。この山深い里の人たちは、厳しい冬をどう過ごすのだろうか。集落の外に仕事に行っているのだろうか。それとも、漁業で生計を立てているのだろうか。美しい風景の背後に冬の厳しい顔を持っているであろうこの地の暮らしに、僕の心が何故か少しだけチクッとした。
突然目の前が開けて駐車場があらわれる。トイレや土産物売り場もあって、車やバイクがけっこう停まっているので驚いた。だって、ここまで登ってくる間、ほとんど車に会わなかったのだから。琵琶湖に向かって半島のように突き出た山上のこの場所は背後の山側を除いてぐるりと見渡せる眺望が素晴らしい。海のように見えるけれど、ここは海ではない。まず、波が違う。大きなうねりもない。でもこの広さは、まるで海だ。琵琶湖って本当に大きいんだなぁ。
3.水鳥公園
余呉湖を回ろうかと思ったが、彦根で天寧寺、彦根城に登る予定なので、先を急ぐことにして、湖北町の水鳥公園に向かうことにした。もっとも、この時期はあまり野鳥の種類は多くない。それでも、ヒクイナなど夏鳥に会えることに期待して回ってみることにした。
とにかく暑い。湖岸道路の脇に駐車場を見つけ、できるだけ木陰になりそうな所にラウム君を停める。
滋賀の県政eしんぶんの7月8日付で、琵琶湖から新属、新種の原生生物発見のニュースを見た。「県立琵琶湖博物館、オーストリア・ザルツブルク大学、宮城教育大学の研究グループが、琵琶湖から新種の繊毛虫(原生生物:ゾウリムシの仲間)を発見し、新属、新種として、国際原生生物学会が発行する学術雑誌、ジャーナル・オブ・ユーカリオティック・マイクロバイオロジー(Journal of Eukaryotic Microbiology)に報告しました。」というもの。
「この研究班が、繊毛中の形態や遺伝子の解析を行ったところ、後部の棘がないことや、尾部の繊毛の数が平均7本多いこと、リボゾーマルRNAの遺伝子配列が他のコレプス科の属と異なることから、新属、新種であると判断し、レビコレプス・ビワエ(学名Levicoleps biwae Foissner, Kusuoka and Shimano, 2008)と命名しました。」ということである。
この日も、若き研究者と思しき二人が、チェストハイウェーダーを着用して、目の細かい網を持って湖内を歩きながら何かをすくっていた。「もしかしたら、先の研究グループかな?」などと思ったのだった。
琵琶湖が形成された時期は約400万〜600万年前で、現在の三重県伊賀市平田に地殻変動によってできた構造湖であり、これがしだいに北へ移動し比良山系によって止められ、現在の位置に固定した。バイカル湖、タンガニーカ湖に次いで世界で3番目に古い古代湖であると目されているのだ。もしかしたら、琵琶湖の深い底に、いまだ発見されず、それでもしっかり生き残った古代の生物たちが、まだまだたくさん生息しているのかもしれない。
カイツブリが潜って小魚を追い、思いがけないところに浮き上がって、また潜るという作業を根気よく続けている。湖面をシオカラトンボが飛び、葦の穂先で羽を休め、遠くの黒っぽい色の柵にカワウがとまっている。うだるような暑さ。時間の流れもこの暑さでメルトダウンしてしまったのではないかと思えるほどだ。中州や小島の景観を楽しみ、彦根に向かう。
4.天寧寺の五百羅漢に身近な人の顔を発見
彦根で最初に立ち寄ったのは、里根町の五百羅漢で有名な天寧寺。この寺の縁起は、慈悲無情の出来事から始まる。
彦根城主井伊直中公の耳に、ある日、男子禁制の欅御殿の腰元、若竹が子供を宿しているといううわさが届く。直中公が相手の名を問いただすが口を割らない若竹。業を煮やした直中公は若竹を手打ちにしてしまう。その後、若竹の相手が自分の息子であり、お腹の子は自分の初孫であったことが判明する。直中公は自分の行いを悔い、井伊家菩提寺清涼寺、寂室堅光禅師の指導の下、追善供養のため、京仏師駒井朝運に刻ませて後百羅漢を安置し、天寧寺としたのである。
「亡き親、子供、愛しき人に会いたければ天寧寺に籠れ。」と云われる程、必ず自分の探し求める人の顔があるという、五百羅漢が並ぶ羅漢堂に入る。入口を入るとすぐ右手に羅漢が並ぶ。そして、中央の広間に出ると、南面は背丈ほどの障子が閉じられているが、残りの3面には、びっしりと羅漢さんが並ぶ。そして中央にはお釈迦様とその弟子たちの仏像が一段高い所に鎮座している。
広間の中央に座して、ゆっくりと羅漢さんのお顔を見せていただく。確かに、一体ごとに顔つきも表情も異なり、見ているうちに、
「あ〜っ!須田さんに似てる!」
と、しばらく会っていない先輩の顔を思い出したりする。しばらく、一人ひとりの羅漢さんに友人・知人を重ね合わせて楽しむ。なかなか飽きのこない作業なんだけれど、お腹もすいてきたので、羅漢堂を出て、とりあえず境内を一回りすることにして、羅漢堂の裏手に回り込むと、何とも派手な布袋さんがいた。かなり恰幅の良い方で、右手に軍配をもち、笑い顔(ちょっと不気味さものぞかせる・・・)、立膝姿で腰を下ろしている。元は金色に輝いていたのだろうが、参拝客に撫でられたものか、お腹や足は黒光し、周囲ぐるりに五色の幕が張られ、両側に『布袋尊』と書かれた赤い神前用提灯が下げられている。
布袋さんの見ている方向には枯山水の庭園があり、白い砂に箒で波を表す筋目が引かれ陸を表す石が置かれている。その配列がなんとも妙味を出している。枯山水の向こう側は開けており、彦根城を遠望することができた。
桜田門外の変で落命した大老井伊直弼の血染めの衣装が四斗樽に収められ埋められているという供養塔、仏さまの足形が刻まれ仏足石、手の入っていない草むらに鬼ゆりが咲いてい、そのオレンジの大輪の花が印象的だった。
5.金亀城登城編
(1)八景亭のこと
天寧寺の境内を一通り見て回って、彦根城、別名金亀城(こんきじょう)に向かう。どこかで昼飯を食おうと思うのだが、なかなか適当なところが見つからない。しかも、駐車場がどこもいっぱいで・・・、2周して『玄宮園』の隣にある桜場駐車場に車を止め、八景亭に寄ってみようと歩いて行ったのだけれど、入口に仲居さんがおり、
「御昼食は、お一人10,000円ですけど・・・」
僕の姿を見ていぶかしげに聞いてきた。ちなみに、その時のいでたちは、ハーフパンツにピンクのTシャツ、竹の皮製の雪駄、手荷物の入ったカバンを肩から提げ・・・、まあ、上客には見えなかったのかな。まあ、それはそれで良いんだけれど、ちょっとカチンと来たので、
「かまいませんよ。」
と返事して中に入ろうとする。
「すいません、お一人ですか?」
「そうですよ。」
「申し訳ありませんが、御昼食はお二人様からお受けしているんです・・・。」
「わかりました。それならもういいです。」
と辞したのであります。
何とも気分の良くない店でした。表のお品書きのところにでも、「御昼食二名様よりお受けいたしております。」くらいのことを書いておくとか、配慮がいりますよね。でも、何で二人何のかなぁ。効率よく稼ごうという商魂から来るのかなぁ。時々一人旅に出る僕は、
「一人旅を差別するなぁ!」
と、シュプレヒコールの一つもあげて、糾弾したいところではあったが、まあ、それほどのことでもないか。食事はあきらめて、表門から天守閣を目指す。
(2)天秤櫓前売店の旨いうどんのこと
気温34度。ちょうど一番暑い時間帯に差し掛かろうかという午後1時、僕は彦根城に上る坂道を、汗をかきながら登っていく。二の丸のところの入門ゲートから 天秤櫓まで、道のりは大したことはないのだけれど、かなりの急傾斜であり、昔、武士は出勤のために、重い刀を腰にさして、ここを登ったり降りたりしていたのかと思うと、
「あなたたちは凄いですね。」
と古人(いにしえびと)に労いの声をかけたくなる。
天秤櫓の下をくぐり左へ回り込みながらさらに石段を登ると、天秤櫓を渡っていよいよ本丸にはいっていくというところに、売店がある。昼飯を食っていないのだけれど、暑くて食欲がいまいちわかないのだが、『うどん』、『蕎麦』の幟に引き寄せられるように売店に近づくと、売店のおばさんが、
「いらっしゃいませ。どうぞ!お席は空いていますよ。」
と声をかけてきたので、思わず
「では、笊うどんをください。」
と答えてしまった。
正直言って、ほとんど青天井で、申し訳程度に扇風機が回っているだけのこの店で、旨いうどんが食えるとは思っていなかった。ところが、である。よく冷えたコシのある麺、汗をかいて不足気味の塩分を補給するに十分な適度に出汁の利いた麺汁、刻みネギにワサビ、旨いではないか!
確かに、?腹が減りすぎるくらい減っており、?しかし、暑くて食欲がわかず、?これから本丸に上りさらに場内を散策するエネルギーの補給が必要だ、という僕の側の主体的条件が、その店のうどんを普通以上に旨く感じさせたかもしれないという可能性は否定できないが、店先で愛想を振りまくおばさんと、ご主人かどうか定かではないが、客の注文に合わせて料理を出してくるおじさんの絶妙のコンビネーションと、美味しく食べてもらおうという気持ちが伝わる店である。
こうなると、八景亭さんに追い返された(ちょっと言い過ぎですが・・・。)ことに感謝しなければならないね。何せ、気持ち良くうどんを食べて、500円で済んだのだから。八景亭に入っていたとすれば、1万円の『豪華御昼食』だったのだろうが、この天秤櫓の笊うどんほど感動的な旨さを味わうことはできなかったと思うのである。
(3)天守閣にあがる
売店を後にし、天秤櫓に向かう廊下橋を渡る。天秤櫓はこの廊下橋を中心に左右対称に建てられており、天秤のような形をしていることから天秤櫓と呼ばれている。日本の城郭でこの形式の櫓があるのは、この彦根城だけである。天秤櫓を抜けるとまた坂道となり、途中に時報鐘がある。城全体に響き渡るようにと鐘の丸より移設されたそうで、今でも定時に鐘がつかれ、日本の音風景百選(彦根城の時報鐘と虫の音)に選ばれているのである。時報鐘の左手に聴鐘庵があり、時報鐘を見上げる縁台で、薄茶をいただくことができる。
時報鐘を過ぎ、石段をのぼりつめたところに本丸への最後の関門である太鼓門櫓(重要文化財)がある。この櫓は東側の壁がなく、柱の間に高欄をつけ廊下にしている。登城合図用の太鼓の音を響かせるために考案されたのではないかといわれている。太鼓門を過ぎるといよいよ彦根城本丸である。
この彦根城、別名を金亀城というのにはわけがある。彦根城築城以前、彦根山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像安置されていたためだという。この観音様について、「扶桑略記」に、次のような謂れが書いてある。
摂津の徳満という僧が両目の視力を失い、長谷寺で祈願したところ夢に老僧があらわれ「彦根山西寺の観音に祈願するならば、三日のうちに験がある。」と告げた。徳満は拝謝して承暦3(1079)年3月9日彦根山西寺にきて祈願したところ、三日目の戌の刻に至り両目が忽ち開き、仏前の灯明を見ることができた。この噂が京に広まり、その年は白河上皇や大臣をはじめ多くの人が彦根山観音に参詣し大いに賑わったという。
天守は姫路城、松本城、犬山城とともに国宝四城の一つである。屋根様式が巧みに組み合わされた美しい城だ。この彦根城は将軍徳川家康の命により、佐和山城を一掃するため、慶長8(1603)年に着工され、天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築、石垣や用材などを佐和山城、安土城などからも運び、20年もの年月を要とした大工事の末、1622年に完成したとされている。
天守に入ると、梁などの構造を見ることができる。直線的な梁ではなく、曲がった巨木が使われているのだが、それは、この工事を受けた匠の手仕事によるもので、腕を自慢したものだといわれている。
天守の構造を楽しみながら急階段を登り、玄宮園を上から眺め、堀を行く観光船を見送り、徳川譜代の井伊氏35万石の居城を、眼で、耳で、触って、十分堪能した。天守から西の丸、三重櫓(重要文化財)の中を見せてもらう。三重櫓の向こう側は空堀になっており、10メートル以上に及ぶ石垣の上に、敵の侵入を拒むようにこの櫓は建てられている。西の丸一帯は桜などの木がたくさん植えられており、木陰でしばし休憩。天守の裏手に当たり、三重櫓の向こうは長坂という天守へあがる経路では一番長い道ということもあり、西の丸に足を伸ばしてくる人はあまり多くない。江戸時代には武士たちが跋扈したであろう城郭の木立の中に一人でいると、木陰の中を渡る一陣の風と共にひょっこりと武士達が現れるような時代の気配を感じた気がしたのだった。
(4)名勝玄宮園
長坂を降り玄宮園に入る。食事を断られた八景亭の近くに、玄宮園の入口がある。彦根城の北東にある大名庭園で、中国の瀟湘八景にちなんで選ばれた近江八景を模して作られた縮景園で、第四代藩主直興が延宝5(1677)年に造営したものだという。八景亭は、この玄宮園を愛でながら食事をすることができるんだね。
国宝の天守を借景とし、4つの島と9つの橋がかかり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭と趣のある建物が並んでいる。僕の記憶が確かならば、映画『大奥』のロケに使われたはずだ。
名庭をゆっくり歩いて楽しむ。でも、暑い。こりゃぁたまりませんな。涼しいところに避難しようと、博物館に向かう。
琵琶湖一周いきあたりばっ旅 − 初日 −(by Hana Hajimeさん)
(1)腹ごしらえ
旅の始まりは、まず腹ごしらえ。「腹が減っては戦ができない。」のだ。ということで、京都市中京区押小路小川西入古城町にある中華そばの『ちいふ』へ行った。京都の地名は実に面白い。東西の通りである押小路と南北の通りの小川通の交差するところにある古城町というような意味らしく、地名を聞くと地図が頭に入っている人ならば初めて行く場所でもだいたい近辺まではいけるようなっているらしい。ただ、らしいというだけで、確証はないのだけれどね。
で、ちいふのラーメンである。お盆の上にラーメン丼、その隣に卵の入った呑水(とんすい)が置かれる。店のおやじが
「卵を割って、すき焼き醤油をたらし、麺や叉焼をつけて食べてみてください。」
というので、
「ほほう。変わった趣向ですね。」
とこたえながら、言われるままに叉焼に卵を絡ませて食べてみる。
「ほとんど、すき焼きですね。なかなか変わった味わいですな。」
「でしょう。うちはこれが売りですねん。」
とおやじ。すき焼き風味のラーメンを食し、絡める卵がなくなったら、ラーメン単体を楽しむ。一杯で二度美味しいという感じですかね。すき焼きとして食べているときは気にならなかったけれど、ラーメンとして食べると叉焼の脂身が多く、肉のうま味が感じられず今一だね。ラーメンスープは濃い醤油の色が出ており、昔ながらの中華そばスープであり、僕の好きな味だ。麺も旨いので、叉焼がもう少しうまければ★★あげても良いかなとおもうけれど、残念ながら、一つしかあげられない。
(2)三井寺の歴史に触れる旅
京都まで同行したCとここでお別れして、一人三井寺を目指す。途中、道に迷いながら、右往左往しながらなんとか門前の駐車場に車を入れ(駐車場代500円)、ゆっくりと三井寺界隈を散策する。三井寺は、正式な名称を天台宗門宗総本山、長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)という。古くから日本四箇大寺の一つに数えられているが、その歴史は7世紀にまでさかのぼる。
7世紀初め、中国大陸に広大な統一国家を形成した唐は、朝鮮半島進出を企てた。朝鮮半島は長く高句麗、新羅、百済の三国に分かれていたが、新羅が唐と手を組んで、統一国家形成のために百済へ侵攻してきた。百済と日本は、かつてより同盟関係にあり、百済の要請で朝廷は援軍を派遣、白村江で大きな戦闘がおこったが、百済・日本連合は圧倒的な力の差を見せつけられて敗退した。
この戦闘により朝廷は新羅・唐連合軍の日本侵攻を恐れ、都を大津に移すことを決めた。そして、天智天皇の667年近江大津宮が成立する。ところが、671年天智天皇崩御後、皇位継承争いがおき、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)の骨肉の争いである壬申の乱が起こる。勝利をおさめた大海人皇子は672年再び都を飛鳥に遷した。
大友皇子の子、大友与多王が父の霊を弔うため、「田園城邑」を寄進して寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅願を賜った。そこからこの寺に園城寺という名前がつけられたのである。
天皇家の皇位継承争いはこれだけではなく、歴史をひも解くと数々の悲惨な事件が起こっているのだけれど、ここではそのことには触れない。それにしても、権力というものは、親族の命を奪ってまで手にしたいものなのか。そうした世界に縁のない僕には理解できないことではある。
さてその園城寺がなぜ俗に三井寺と呼ばれるのか。それは、天智・天武・持統と三代の天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師が、厳儀・三部潅頂の法水に用いたことに由来する。ちなみに潅頂(かんじょう)とは、大辞林によると「密教の儀式。伝法・授戒・結縁などのとき、香水(こうずい)を受者の頭に注ぐことをいう。」とある。
仁王門をくぐったところに受付があり、500円を支払う。境内は、時折すれ違う人がいるくらいで、静けさに包まれ、蝉時雨が降り注ぐ。木立に囲まれているとはいえ、風がなく、蒸し暑い。釈迦堂、光浄院(公開されていなかった)、金堂(改修工事中で、足組みとシートにおおわれていた)、弁慶の引きずり鐘、一切経蔵、三重塔、灌頂堂、唐院、村雲橋を渡り毘沙門堂、西国十四番札所観音堂、戻って、三井の晩鐘を見て、再び仁王門を出る。
貞観年間(859〜877)になって、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚が、園城寺を天台別院として中興し、東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、南都北嶺の一翼を担ってきたが、円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入る。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されたのだ。その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の苦難に遭遇するが、 智証大師を信仰する人々によって支えられ、その教えは今に伝えられている。そんな大歴史絵巻を思い描きながらの三井寺散策となった。
(3)門前の蕎麦屋
小腹がすいたので、門前の駐車場の一角にある「和風れすとらん 風月」に入り、ざる蕎麦を注文する。これはいただけない。蕎麦汁は良く冷えているのだが、蕎麦のほうが微妙に生暖かい。注文して意外に早く出てきたなと思ったのだけれど、もしかして、作り置きしていたものか、あるいは又、キャンセルが出たのか、もしくは、茹でたあと、水の中に放置されていたのか、確かめるすべもないし、あえて確かめるまでもない。そばの風味がしないし、蕎麦自身がかなり柔らかい、茹ですぎというよりは茹でたあと、そのまま水の中に放置されていたのではないかと思われる。粉わさびを練った山葵、刻みネギ、蕎麦湯が一緒に出てきたので、厨房で打っているかどうかは別として、茹で麺を使ってはいないようだ。だとすれば、きちんと手順通りの仕事をすれば、もっとうまい蕎麦を客に出すことができるのに、残念だなぁと思う。
ということで、この店は評価できない。
(4)浮御堂から今津へ
気を取り直して、161号線を北上、右「浮御堂」の案内表示が目にとまり、足を延ばすことにした。近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺といい、平安時代、比叡山の恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願し、自ら千体の阿弥陀仏を刻んで建立したという。現在の浮御堂は昭和12年に再建、昭和57年にも修繕され、現在に至り、往時の情緒をそのままに残している。
門をくぐると左手に受付があり、拝観料300円也を支払う。その奥左手に観音堂があり、そこに重要文化財である聖観音坐像が安置されている。観音堂の脇には樹齢数百年と見える老松の巨木がはえている。この松の言の葉を聞くことができたら、
「芭蕉はんが船でここに来て、十六夜の月見をし、17文字の短い言葉の中に『侘び』・『寂び』・『しをり』・『ほそみ』・『かろみ』などの言葉で表される蕉風の句を、お読みになりました。なんや、お弟子さんも二人ばかり連れておいででした。」
などと、昔の情景を語ってくれるのかもしれないが、残念ながら、僕は松の木と語る術をもたない。境内には、松尾芭蕉の
『鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂』
の句碑が建てられていた。
松の枝の下から、湖に浮かぶように佇んでいる浮御堂に向かって、橋が渡されており、靴を脱いで御堂の周りをぐるりと一回りする。御堂の中には件の1千体の阿弥陀仏像が納められている。
伝によれば、恵心僧都が比叡山横川から琵琶湖をながめると、毎夜びわ湖畔に光明が認められる。その光明の赫々たるを怪しみ、網でこれを掬いとらせると、1寸8分の黄金の阿弥陀仏像であった。そこで、魚類殺生供養のため、阿弥陀仏像1体を造り、その体内にこれをおさめ、1000体の阿弥陀仏像をも奉安し、浮御堂を創建したといわれている。
厳しい暑さの中ではあったが、湖の上に立つこの浮御堂の上は、琵琶湖を渡る風が肌に心地よい。
浮御堂を出て、魚屋の前を右に曲がる。小さな川の手前に小道があり、無花果が植えてある脇を抜けると湖畔に出る。右手に浮御堂が見える岸辺に、城山三郎の文学碑が建てられていた。パンフレットの浮御堂の写真は南側から撮ったものだが、北側からの写真も悪くない。水辺まで下りてきているので、やや見上げる形にはなるが、人工的な護岸よりも琵琶湖の上に建てられている感じが良くわかる。
(5)不老泉の古里〜大田の町
大田の上原酒造周辺を歩いてみようと、琵琶湖に沿って北上を続ける。途中、白髭神社の朱塗りの大鳥居を湖中に発見し、立ち寄ろうかと思ったが、時間的に厳しくなるので、横目で見ながら通過。位置的には、近江高島駅の南約2km、琵琶湖の湖中にその鳥居は立っている。そして、僕が走っている国道161号線をはさんで社殿が立つ。「白鬚さん」「明神さん」の名で、地元の人から広く親しまれ、また、「近江の厳島(いつくしま)」とも呼ばれている。たしかに、小型の厳島神社の大鳥居という感じに見えた。
社名のとおり、延命長寿・長生きの神様として知られ、また、縁結び・子授け・開運招福・学業成就・交通女全・航海安全など、人の営みごと、業ごとすべての導きの神という「何でも来い。」の神様らしい。祭神は猿田彦命。
安曇川を越え、最初の信号が小学校前で、そこを右折する。しばらく行くと大田神社を過ぎ、右手の奥に酒林を発見。そこが、上原酒造である。この時期酒の仕込みをしているわけではないので、蔵の周りを散策する。広い平野、水田が広がり、田圃のはるか向こうに少し広い道があるようで、等間隔で何かの木が植えられている様子が見える。用水が流れ、そこで、野菜を洗っているお袋のような年配の女性がいる。その向こうでも、用水路で冷やしておいたトマトに胡瓜を笊ごと引き上げようとしている。用水の水は清く、小魚が泳ぐ。用水沿いに民家が並ぶが、近代建築の建物は皆無といってよい。古い木造の家、新しい家も古い伝統を受け継ぐ、木造建築が並ぶ。
「あぁ、この町は、こうして水と暮らすことが日常なのだ。この豊かな水が、上原酒造の不老泉に代表される旨酒の源だ。」
不老泉の旨さの秘密を発見した気分になって、大田の街並みを見ながら今日の宿に向かったのだ。
(6)琵琶湖周航の歌と今津の町
ホテルにチェックインして、周辺を散策し、ここが琵琶湖周航の歌の誕生の地だということに気がついた。
【琵琶湖周航の歌】
作詞
小口
太郎
原曲
吉田
千秋
1 われは湖の子
さすらいの
旅にしあれば
しみじみと
のぼる狭霧や
さざなみの
志賀の都よ
いざさらば
2 松は緑に
砂白き
雄松が里の
乙女子は
赤い椿の
森蔭に
はかない恋に
泣くとかや
3 浪のまにまに
漂えば
赤い泊火
なつかしみ
行方定めぬ
浪枕
今日は今津か
長浜か
4 瑠璃の花園
珊瑚の宮
古い伝えの
竹生島
仏の御手に
いだかれて
ねむれ乙女子
やすらけく
5 矢の根は
深く埋もれて
夏草しげき
堀のあと
古城にひとり
佇めば
比良も伊吹も
夢のごと
6 西国十番
長命寺
汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)遠く去りて
黄金の波に
いざ漕がん
語れ我が友
熱き心
少し長くなったけれども、琵琶湖周航の歌の全文である。この歌ができたのは、大正6年、ここ今津町で生まれたのである。
大正6年6月、第三高等学校(現京都大学)二部クルーは学年末(当時7月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出る。小口太郎ら一行は大津の三保ケ崎を漕ぎ出て、1日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、2日目の6月28日は、今津の湖岸の宿で、疲れをとっていた。
その夜、クルーのひとりが「小口がこんな歌をつくった」と同行の漕友に披露し、彼らはその詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節に乗せるとよく合ったので、喜んで合唱したということだ。これが、「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間である。また、当時彼らの間で「流行っていた歌」が、吉田千秋の「ひつじぐさ」であることが判明したのは平成に入ってからのことだと聞く。大正時代に生まれ、歌い継がれ、しかもその作者が平成に入ってから判明する。時代を超えた粘り強い努力のたまものとしか言いようがない。そんな歴史を改めて勉強させていただいた。
(7)今津の地酒は伝統的なしっかりとした日本酒だったのだ
ホテルから近江今津駅まで歩く。ホテルのフロントで、地元の酒が飲める店はないかと聞いたところ、今津駅の向こう側に何軒か居酒屋があるという。駅まで歩いて15分ほどだというので、まだ日もあるし、のんびり歩くことにしたのだった。
ホテルの隣が今津ショッピングセンター・リプル。ここは、いわゆる専門店がテナントとして入っているショッピングモールで、平和堂というスーパー、和食の花街道やレストランなどが入っている。ここで安直に晩飯を済ませる手もあるなと一瞬思ったが、
「いやいや、駅前の飲み屋街が俺を呼んでるぜ。」
と張り切って駅前飲み屋街をめざしたのだが、華々しい飲み屋街などなく、駅前の50メートルほどのアーケード街で夏まつりをしていたが、出店の関係者のほか、観客は数人という感じだし、一角でバンドが演奏していたが、演奏こそ様になっているとはいえ華がない。「これはまずいぞ。」
と思いながら、アーケードを抜ける。なんと、直ぐに畑や田んぼが見える。
「田舎なんだなぁ。」
とほのぼのした空気が流れるが、
「ちょっと待て、このままでは、今日の晩飯にありつけないぞ。」
と気持ちを入れ替えて今日の落ち着く先を探す。しばし歩くと『割烹 うな正』の看板が目に入る。割烹というからには、それなりに献立も充実しているに違いないとあたりをつけて、思い切って暖簾をくぐる。
今津サンブリッジホテルから歩いて15分ほどとはいえ、暑い盛りのことですっかり汗をかいた。こういうときの
「とりあえず、生ビール!!」
は旨いね。で、最初の一杯を一気に飲み干し、2杯目をチェーサー代りに頼んでおいて、
「地酒は何がありますか?」
と聞いたところ、地酒は女将さん担当らしく、僕よりも少しお姉さんという感じのふくよかな、若いころの美貌を想像させる、なかなか別嬪の女将さんが出てきて、
「池本酒造の蔵人の純米、それから、萩の露があります。お客さんの好きづきですけど・・・。」
「では、蔵人をいただけますか?肴は、そうですねぇ、琵琶湖の鮎なんかはないですか?」
お酒を頼み、いざ料理を頼む段になって虚を突かれた。息子さんと思しき若い衆が板場に入っており、
「うちは9割海の魚です。琵琶湖の魚は置いてないですね。」
という。非常にがっかりしたが、琵琶湖の湖魚はかえって高いんだね。こういう駅前の、仕事帰りのおやじが、
「けっ、今日の仕事も辛かったぜェ。課長の奴、若造のくせに偉そうに・・・。」
とまあ、コップ酒を固く握りしめるというようなシチューエーションの店では、そんなに高い料金設定するわけにはいかないからね。それでも、
「川鱒ならありますよ。」
というので、それを頼む。
蔵人は辛口の酒で、後で確認したところ、日本酒度は+5、淡麗辛口で有名な久保田が+4くらいだから、それよりも辛いのだが、久保田ほど軽くない。日本酒らしい味がしっかりした酒で、この店の料理とよく合った。
おかわりに萩の露を頼むが、こちらも辛口なのだが、蔵人と比べると香りが高く、その分、軽い感じがする。このあたりの酒蔵は、
「こういうしっかりした酒を造っているんだなぁ。」
と感心した。
料理の方は、川鱒の煮物(写真)、鰻の天麩羅をいただく。川鱒の煮物は濃いめの味付けで、付け合わせで牛蒡が一緒に炊いてあり、川魚の匂い消しか、醤油と生姜の味と香りがした。
鰻の天麩羅は、ギトギトになりそうな気がしたが、意外にもさっぱりしており、塩でいただいたのだけれど旨い。
地酒を飲ませる店としては、合格点を出していい店だと思ったのだった。
(8)千鳥足というほどでもないが・・・
うな正で生ビール2杯、蔵人1合、萩の露1合、本醸造酒2合・・・ほろ酔い加減で近江今津の南側を通り、琵琶湖の今津港に向かう。道中に、『琵琶湖周航の歌』の歌詞が鋼製のプレートに刻まれ石塔にはめ込まれている。大通りから今津港に向けて1番、2番とほぼ等間隔に並んでいる。一枚づつ写真を撮っていく。
今津港の手前に西福寺というお寺があり、鐘の音が聞こえる。今津港は最後の船が出た後であり、誰もいない。明日の出向を待つ船が泊まり、琵琶湖に向かい女子高生と思しき二人連れが談笑している。後ろからこっそり一枚撮らせてもらう。
琵琶湖岸に降りてみる。湖岸におしろい花が咲いている。暮色の迫る琵琶湖畔、カイツブリが小魚を追い、潜っては浮かびを繰り返えしている。ここは、かつての九里半街道の起点であり、室町時代の史料に「九里半階道路」、「若狭道九里半」などと記されている。今津と福井県小浜の距離が約38km(九里半)であることから名付けられたという。江戸時代には、近江側では「若狭海道」、若狭側では「今津海道」などと呼ばれ、小浜に陸揚げされた日本海諸国の海産物などがこの道を通って今津に運ばれ、ここから湖上輸送で京阪持ち込まれたのである。
旅籠、お茶屋、すし屋などが軒を並べ、往時の賑わいを想起させるが、今日の今津の町並みは静かである。歩いてホテルまで戻り熟睡。
戦争証拠博物館からTuDu病院へ(by Hana Hajimeさん)
5月5日(月)
朝、K下さんとホテルの向かいの路上にテーブルを出しただけの店でフォーを食べようと下に降りたら、ちょうど葬儀の行列に出くわした。こっちの葬式はこんな早くにやるのかと驚いた。まだ、7時前だ。それに、ミニブラスバンドのような楽団が後ろについてにぎやかに演奏している。先頭に白装束の若者、その後ろに同じく白装束の女性が二人いて、その後ろは紫色のズボンに灰色の上着を着た老女が立っている。どうやら、亡くなったのは一家の主で、長男が先頭に立っているようだ。先頭の若者の手には、白地にピンクの花模様の壺、そして、その壺には50センチはありそうな蝋燭が立てられている。日本の霊柩車と違い、2tトラックの荷台に赤い支柱が立てられ、その上に赤い屋根がしつらえてあり、赤と金などの派手な色の装飾品で飾られているという実に派手なトラックである。そこに、金と赤を基調とした棺が運ばれてきて乗せられる。トラックがゆっくりと走り、その後ろを葬儀に参列した親族と思われる人たちが歩いてついていき、さらにその後ろをブラスバンドが音楽を演奏しながら進んで行った。
葬列が行き過ぎてから、フォーを頼み、歩道の上のにわか屋台で食べる。フォーの出汁は牛骨から取ったものと思われるが、コリアンダーなどの香辛料が入り、ミントの葉などをのせるので、牛骨の臭いは感じない。肉と、玉ねぎ、刻みネギ、ワケギの白いところがのせてある。テーブルの上にミントの葉やモヤシなどが置いてあり、好みでのせて食べるようになっている。味もテーブルの上の酢やチリソース(?)、ニョクマムなどで調節して食べるのである。
僕はチリオイルのようなものをたらしていただいた。ピリリとした辛さのパンチがきいてうまい。
今日は、今回の平和ツアーのメインテーマである戦争証拠博物館とTuDu病院訪問が予定されており、8時にホテルのロビーに集合。女性陣の要望で、朝飯にフォー食べようということになっており、S籐さんの案内で、ベンタン市場の西側にある、クリントン米大統領が立ち寄ったというフォーの店に行き、おもいおもいに注文した。僕は朝早くフォーを食べているので、チキンスープカレーとフランスパンを頼んだ。K下さんは、クリントン大統領が食べたのと同じフォーを食べている。
スープカレーにフランスパンを浸して食べる。香辛料の利いたカレーで、日本のカレーとよく似ている。あっ、違うか、日本がカレーという食文化を輸入しているんだもんね。こっちの方が先祖だ。チキンの骨付き肉とジャガイモ、人参が入っている。具材だってほとんどかわらない。好みの味のカレーがパリパリのフランスパンの皮を柔らかくし、パンのうま味とカレーのうま味が合わさってとても旨い。大いに気に入った。
ここから、戦争証拠博物館まで歩く。北に向かって大きな通りを3つほど越えると両側が公園になる。背の高い並木が両側に植えられ、そこだけ、空気がきれいな気がする。公園の花壇に鶏頭や向日葵といった花が咲いている。日本でいえば夏の花が今まさに真っ盛りなのだ。その公園を抜け、さらに大きな通り越え2本目を右折(東に入る)してしばらく行くとめざす戦争証拠博物館に到着。入館料15,000ドンを支払い、一時間ほど館内を見学する。
一ノ瀬泰三、沢田教一、石川文洋など日本人の従軍カメラマンの写真がたくさん展示してあり、一ノ瀬泰三が使っていたNikonFのパネルが展示してあった。NikonFのファインダー側なんだけれど、レンズ側から銃弾が入りファインダー側に抜け、穴があいている。一ノ瀬がカメラを構えているときだとしたら、間違いなく即死だな。一ノ瀬は、1972年カンボジア入国以後、クメール・ルージュの支配下に有ったアンコールワット遺跡への一番乗りを目指しており、1973年11月、「地雷を踏んだら“サヨウナラ”だ」と友人に言い残し、単身アンコールワットへ潜入した。そして、そのまま消息を絶つ。10年たった1982年、一ノ瀬が住んでいたシェムリアップから14km離れた、アンコールワット北東部に位置するプラダック村にて遺体が発見され、両親によってその死亡が確認されたのだ。その後、ポル・ポト派により捕らえられ、わずか26歳で処刑されていたことが判明。壮絶な人生だな。
沢田教一の『自由への逃避』を使ったポスターが掲示してあった。実物はなかったが、彼は、この写真でピュリッツァー賞を受賞し、一流従軍カメラマンの仲間入りを果たした。しかし、その沢田も『自由への逃避』の5年後、カンボジア戦線を取材中に死亡した。石川文洋は戦後も生きて、現在もフリーカメラマンとして活躍している。
彼らをベトナムへと向かわせたものは何だったのか。沢田教一は青森生まれ、石川文洋は沢田の2歳年下で沖縄生まれ、一ノ瀬は石川の生まれた9年後佐賀県に生まれた。いずれも辺境の地に生まれたという共通項を持つ。もちろん、ベトナム戦争に対する様々な思い、平和を願ったり、民族独立運動だとか、ジャーナリスティックな精神の発露が大前提だとして、辺境の地に生まれたという中央に対する劣等感、一旗あげてやろうという野心、そんなハングリー精神が底流に流れていたのではないか。そうでなければ死者にカメラを向けることなどできないのではないか。僕にはそのように思われた。
枯れ葉剤を浴びた女性から奇形児が多く生まれている。無脳症、結合双生児、そんな生きることができなかった命が、ホルマリン漬けされている写真。中村悟郎の『母は枯葉剤を浴びた―ダイオキシンの傷あと』で見たことがあるが、それが、半切、全紙サイズで展示されている。僕には正視できない。心が痛い。
また、コンダオ監獄のタイガーケージが再現されていたが、なぜ、人はこんなに残酷になることができるのか、僕には理解ができなかった。展示物を見ているだけで疲れ果て、中庭の売店でコーラを買って飲みながらボーっとしていたら、K下さんがやってきた。
「見ているだけで疲れてしまいますね。僕は、こういうのは苦手です。」
「そうやな、かなり衝撃的だからな・・・。」
日本の博物館でもそうだけれど、土産物売り場があって、若い女の子が一人で店番をしていた。その売店に女の子を冷やかしに行こうと、店先に回り込む。彼女の写真を撮ったり、K下さんに一緒に写真を撮ってもらったりした。そして、
「メールで送ってあげるから、アドレスを教えて。」
「●●●@●●●.●●●」
僕は、日本語のわからない彼女とお互いに片言の英語で
「安くして」
「それは無理」
というようなやり取りを楽しみ、結局、1,000ドン値引きしてもらって、赤いい帽子を買った。
10時から博物館の中で、副館長のバンさんと、コンダオ監獄の生き残りの小柄な初老の方と懇談する機会を得た。通訳が上手くないので、細かいところはわからなかったけれど、
「私が今日を生きることが、アメリカの戦争に反対しベトナムの平和を実現する意思表示になるという信念が、私の監獄生活を支える全てだった。」
と語られたことに大きな感動を覚えた。コンクリートのベッドに足枷をされ、まっすぐに延びることもできない拘束された状態で、拷問の恐怖、外界との遮断、精神的にも肉体的にも拘束された不自由な生活。食料も満足に与えられず、解放されたときは一人で立つこともできなかったという。心が折れたときに、人の尊厳のある生は終わる。そんな監獄の生活を心が折れることもなく生き抜いた強さ、僕は素直に心を打たれ、大きな感動を覚えた。
ある種の心地よさを感じながら博物館を後にし、いったんホテルに戻り、ホテルの近くのベトナム料理の店にそろって昼飯を食べに行く。僕は野菜などが入った卵焼きと茄子の煮物を頼んで2階の指定された席に着く。混雑した店内で、それぞれが指定した料理を間違いなくテーブルに運んでくる。当たり前といえば当たり前だが、その手際の良さには脱帽だ。S藤さんが、
「ビールのいる方?」
僕は驚いて、
「これからTu Du病院に行くんですけど大丈夫なんですか?」
「酔っぱらわなければ大丈夫です。顔が赤くなったり、酔わない方は大丈夫ですから・・・手を挙げてください。」
僕とK下さんを入れて6人が手を挙げた。333ビールが出てくる。ベトナム料理を食べながらビールを飲む昼下がりのひと時、こういう時間が幸せだね。ビールを2本飲んで、いったんホテルに戻り、タクシーに分乗してTu Du病院へ向かう。
Tu Du病院は、南ベトナムの産婦人科のセンター病院で、ベッド数は1,000床、外来患者数は1日3,000人にのぼる。しかも、ベトナムでは患者さんに家族が付き添ってくるのが一般的で、2〜3人は付いてくるのだそうだ。ということは、仮に患者さん一人に平均二人付いてくるとすると、入院外来併せて4,000人の患者数だから8,000人の付き添いがいるっていう勘定になる!患者さんとその家族で1万人を超えるやないか。ここだけで一つの町やな。どうりでやけに人が多いと思った。
正門をくぐると、中央が広場になっており、周りに10余りの建物が建ってい、木陰には多くの人たちが涼んでいる。通路にそって右方向に歩いていくと、左手に売店があり、店頭には色とりどりの果物が並び、ジュースを売っているし、その向かいの建物の一階は大衆食堂のようになっている。壁はなくオープンテラスのようになってい、天井に大きな扇風機の羽が回っている。20〜30ほどのテーブルがあり、セルフ・サービスのようで、厨房カウンターで料理を頼み、お金を払い自分でテーブルまで運んで食べている。その食堂の隣が、障害児学級のある特殊病棟の建物だ。その入口で通訳と待ち合わせており、しばし休息。
そこにドクさん降りてきて、
「S藤さん、こっちです。」
と声をかけてきた。
「通訳の方と待ち合わせているので、来たら一緒に上がります。」
とS藤さん。日本の真夏のようなジリジリと降り注ぐ陽射しと闘いながら待つことしばし、通訳の青年がやってきたので一緒に階段を上がる。3階の冷房の利いた会議室に通され、タン先生と懇談。枯れ葉剤の影響で子孫の代まで大きな影響が出ていること、枯れ葉剤が如何に非人間的な兵器であったのかなどの話を聞いた。懇談には、ドクさんも一緒に参加していた。結合双生児として生まれ分離手術をし、ベトさんは残念ながらお亡くなりになってしまったが、ドクさんが元気にこの病院で働いていることが嬉しかった。
ここから少しお勉強の時間。和歌山大学教育学部教育実践総合センター紀要 No.14(2004)をひも解いてみる。「ベトナムの障害児教育における現状と課題」と題する、江田 裕介、森澤 允清、井上 真友子の3人の署名のある論文が掲載されている。この中から少し引用する。
「ベトナム戦争の間にアメリカは、ベトナムの小さな国土の上に 785 万トンの爆弾を落とした。この爆弾の量は、第2次世界大戦中にアメリカが全世界の戦場で使用した爆弾 205 万トンの 3.8 倍に相当する。またアメリカは、7200 万リットルの枯葉剤を南ベトナムの森林や農村へ散布した。散布面積は 170 万ヘクタールで、南ベトナムのジャングルの 20%、マングローブ森の 36%に及ぶ。枯葉剤を散布した目的は、第一にベトナム解放軍の隠れているジャングルを消滅させること、第二に農作物を汚染し食料として役立たないものにすることであった。この枯葉作戦は『ランチハンド(草刈り人)』と呼ばれた。アメリカが用いた枯葉剤は、ジクロロフェニキシ酸(2,4-D)と、トリクロロフェノキシ酢酸(2,4,5-T)という2種類の農薬の混合物で、『エージェント・オレンジ(オレンジ色の使者)』というコード名で呼ばれていた。これらの農薬は、もともとアメリカ国内でも除草剤や殺虫剤、木質植物の成長調整剤などに使われていたものである。日本でも除草剤として用いられていた。アメリカは、その他にも「ホワイト」「ブルー」「パープル」「ピンク」「グリーン」といったコード名で呼ばれた多種の枯葉剤をベトナムへ散布した。
この枯葉剤にダイオキシンが含まれていた。一般に誤解があるようだが、枯葉剤はダイオキシンそのものではない。ダイオキシンは、枯葉剤の化学合成の製法上に混入する不純物質である。ダイオキシンの正式な名称は「ポリ塩化ダイベンゾダイオキシン」といい、理論的には 75 種類が存在する。毒性は塩素の結合の仕方で異なり、ホルモン系に作用して生殖機能や免疫機能を冒すことや、催奇形性、皮膚障害、内臓障害、発ガン性など多様である。そのなかでも 2,3,7,8- ダイオキシンの毒性が最も強いといわれる。エージェント・オレンジのダイオキシン濃度は、米空軍の資料によると 1.98ppm であったとされる。1958 年、ウサギが極微量のダイオキシンで死んだことがドイツで報告された。50kg の人間におけるダイオキシンの致死量は 0.1mg で、青酸カリの 1,000 倍、サリンの 10 倍の強さである。また、サリンは空気中の水蒸気にさらされると無害になるが、ダイオキシンは 1,300 度の高温でしか高速分解しない。極めて安定した物質で、水に溶けにくい性質をもち、最近では環境ホルモンとしての側面も知られるようになった。消化器、皮膚、肺から吸収され、血流によって人体の各組織に運ばれた後、主として肝臓と脂肪に蓄積される。人間では脂肪により多く蓄積され、代謝されにくい。ダイオキシンの排泄は、人間では遅く、2,3,7,8-TCDD の半減期は、実験動物であるネズミの 100 倍以上長いといわれている。
通常の 10 倍以上の濃度で 7200 万リットルもの枯葉剤が散布されたベトナムでは、広範囲で森林や耕作地が壊滅し、79 万人が中毒になり、多量の家畜も死んだ。しかし、枯葉剤の被害は環境や生態系の破壊だけでなく、その後も長期に渡って人体に影響を与え、南ベトナム住民だけではなく、戦争の終結後に北部へ帰還した兵士や、ジャングルへ派兵され被曝したアメリカ兵士、韓国兵士などにも、今日なお生命や健康への被害が続く。
ダイオキシンの影響と考えられる最も深刻なものは、両親の被曝による胎児への影響で、死産、流産、精神神経異常、結合双生児や無能症などの先天性障害の原因となることである。」
ダイオキシンなどの環境ホルモンの影響は、日本やアメリカなど高度に発達した工業国においても同じ問題が潜在しているし、ベトナムにおいても、急速な産業構造の転換と、公害問題を引き起こした日本の高度経済成長期のような、経済の発展を第一義的に考える状況があり、過去の被害とは異なる形で再びダイオキシンの問題が忍び寄っている様に思えて仕方がない。
1時間ほどの懇談ののち、障害児学級と標本室を見学させてもらった。障害児学級の方は、障害を持って生まれてきた多くの子供たちが生活しており、彼らの陽気さに助けられたが、標本室は、なぜこんなことが・・・語る言葉もない。O保さんやK下さんが写真を写されていたが、僕にはカメラを向けることもできなかった。母親のおなかの中で生を得ながら生を否定された存在、非人間的な兵器、それらのことを語るだけで大部の本が書けそうだ。2時間近い時をこの病院で過ごし、人間についていろいろなことを考えさせられた。僕の人生にとって、この時間は、僕の人生に深みを与える時間だったことだけは間違いない。
再びタクシーで移動。今日は、お世話になったS藤さん一家と食事会をすることになっており、サイゴン川に面したオープンレストランに移動した。S藤さんがタツノオトシゴの入った焼酎、バナナの焼酎を持ってきており、飲ませていただいた。どちらもひね香がして、お酒を仕込むということがベトナムでは難しいのだろうなと思わせた。おそらく気温が高すぎるのだと思われる。そのため、発酵がどんどん進んでしまう。ようするに、あまり旨い焼酎ではなかった。
「タツノオトシゴ焼酎は、その名の通り、男性の夜の・・・と言われています。飲みすぎると夜困るかもしれません。」
などという。S籐さんも飲んでいるので、
「では、今晩S藤家に二人めの子供さんが仕込まれるかもしれませんね。」
とみんなに言われていた。S藤さんの奥さんのMさん、一人娘のHANAちゃんとの楽しい交流の時間はあっという間に過ぎた。
帰りににカフェによってアイスコーヒーを飲む。タクシーに分乗してホテルに戻り、爆睡。