ピーナッツとは?

ピーナッツ
マメ科ラッカセイ属のラッカセイ(落花生、南京豆)。およびその種子。→ラッカセイを参照。
チャールズ・モンロー・シュルツによる漫画作品のタイトル。日本では、チャーリー・ブラウンやスヌーピーなど登場人物の名前の方が知られている。→ピーナッツ (漫画)を参照。
日本の双子の歌手、ザ・ピーナッツ。1959年から1975年まで活動。歌だけではなく、シャボン玉ホリデーのようなバラエティ番組、あるいは映画モスラの小美人役など幅広く活躍していた。
日本の映画タイトルでお笑いコンビ・ウッチャンナンチャンの内村光良の初映画監督 監督作品のタイトル→ピーナッツ (映画)を参照。

ピーナッツの詳細

ピーナッツ関連エントリー

節分にピーナッツを撒く(09/02/03)

節分にピーナッツを撒く文化圏はどのあたりなんでしょうか。 ちなみに新潟県はピーナッツです。

節分にピーナッツを撒く(09/02/03)

ランチパック ピーナッツ

ピーナッツクリーム15%増量でリニューアル。

ランチパック ピーナッツ

長ねぎのピーナッツ入り酢醤油あえ

... ピーナッツは粗く刻む。Aをボウルに混ぜ合わせる。 2.フライパンにごま油を熱し、長ねぎを炒める。 3.しんなりしたら火をとめ熱々のうちにAのボウルい入れ、 ピーナッツも加えてざっくりあえる。 ※辛さが苦手な場合はラー油抜きでも! 1 ...

長ねぎのピーナッツ入り酢醤油あえ

☆ピーナッツスナック(わさび味)♪☆

『一度食べたらやみつきになる わさび味の ピーナッツスナック』 知り合いのYさんちの旦那さま、もうリタイアして数年が。 その旦那さまも、うちの夫同様にお酒がだ~い好き♪(笑) わさび味のこのスナック、一度食べ出したら。 ...

☆ピーナッツスナック(わさび味)♪☆

ピーナッツ画像


ピーナッツ旅行記

台湾旅行記3(2):3月26日(1)台北・総統選のTV報道、ホテル界隈(by 旅人のくまさんさん)

ピーナッツ
<2004年3月26日(金)>

 オールフリータイムの台北2泊3日の旅行プランは、一応「気軽に台北3日間」のタイトルが付いていました。しかし、実質はホテルの予約と、飛行場からホテルまでの送り迎えだけを頼んだスリムな旅行プランです。中身も個別にオンライン検索で予約をとって貰った、いわば私専用の手作りプランでした。
 その旅行プランは、ハワードプラザホテルの一人泊の追加料金2万6千円を含めて、ほぼ10万円で仕上がりました。

<HI*の現地ガイドさん>
 HI*の現地ガイドさんは20代半ばくらいの女性の方でした。私以外にも何組かが合流し、マイクロバスでそれぞれのホテルに送ってもらうことになりました。しかし、旅行社を使ったときのお決まりで、小一時間は免税店のお付き合いをさせられました。到着してすぐに買い物をすることはありませんし、免税店で買いたい品物もありませんから、外へ出て時間を潰したり、烏龍茶をご馳走になって時間を過ごしました。前回もお付き合いした何時もの免税店でした。
 ガイドさんはこの免税店に着くまでの時間に、いくつかの注意事項を話してくれました。

 「生水を飲まないようにしてください」

 「貴重品はフロントか部屋のセーフティボックスに仕舞ってください」

 とかの、お決まりの話が最初にありました。
それに加え今回は、次の注意事項が付け加えられました。

 「日本でもテレビ等でご存知かもしれませんが、総統選挙の後で大もめになっています。交通規制で市内観光が遅れたりしますので、あらかじめご承知置きください」

 「総統府などには絶対に近づかないでください。万が一の場合、HI*としては責任がもてませんのでよろしくお願いします」

 等の注意でした。市内観光の法は関係ありませんでしたが、総督府の話はもう少し詳しく聞きたかったので、

 「西面(シーメン)から龍山寺(ロンシャンスー)辺りは問題ないですか?」

 「西面から龍山寺辺りは、鳥インフルエンザ問題の中心地だったようですが、今は心配ありませんか?」

 などを確認しました。返ってきた答は、

 「龍山寺付近はだいぶ離れていますので大丈夫です。西面は総統府に近いので立ち入らないようにしてください」

 「鳥インフルエンザ問題は収束しましたが、念のため鳥料理は避けた方がいいかも知れません」

 と、言ったことでした。基本的には私自身の自己責任なので、 ガイドさんの話は参考程度にさせてもらいました。ついでに、国際空港を出るリムジンバスの乗り場も教えてもらいました。ガイドさんは、

 「マイクロバスに乗ってもらった場所のすぐ左手にあります」

 と、教えてくれましたが、ついでに、

 「次回は、私の仕事がなくなりそうですね?」

 と、質問の意味をすぐに悟られてしまいました。

<ハワードプラザホテル>
 国際空港からホテルまでは1時間ほどで着きますが、おまけの免税店巡りがありますから、出発して2時間はかかりました。免税店からは、ほかのメンバーより近い位置で順路に当るため、先に降ろしてもらいました。予約の確認をし、部屋の鍵を預かったところで、早々にガイドさんと別れました。その他に確認しておくことは、帰りの日の迎えの時間だけでした。
 前回の2002年12月の旅行で利用したハワードプラザホテルは、MRT駅から近く便利でしたから、今回も指定で予約を取ってもらいました。その分一人部屋使用で1泊当りの追加料金が1万3千円と、少し割高でした。外観は地味なデザインで、色も地味なブラウンが基調になっています。しかし、設備は申し分ありませんし、バイキング方式の朝食もなかなか立派です。中国名では「福華大飯店(フーホアダーファンティエン)」と呼ばれています。
 ガイドブックから少し引用しますと「地下1階から地上4階まで85店舗のブランド品ショップが並ぶ大型ホテル」と紹介され、更に「コーヒーラウンジの天井は吹き抜けになっており、噴水や滝が配されている。客室は重厚な家具で品よくまとめられている」とありました。
 また、2001年版のガイドブック(旺文社の個人旅行・台湾)には、5800〜7600元と宿泊料金が記されていました。やはり、1泊1万3千円の追加料金は仕方ないようです。現在はインターネットでの予約も出来るようになっています。部屋数606室の規模です。
 ついでに、このガイドブックでは丸山大飯店の宿泊料金は4000元からとありました。スウィートルームの値段は聞くまでも無いことです。日本でもよく知られた中国建築のこのホテルは、1995年に火災に遭い、しばらく営業を中止していましたが、今は再開されています。見学の対象となる台北名所でもあります。
 国際空港からご一緒だった同世代のご夫婦の旦那さんは、

 「丸山大飯店は素晴らしいホテルですが、街へ出るのに不便で仕方ありませんでした」

 と話されていました。

 「それで、今回は交通の便のいい、街中のホテルにしました」

 とも話されていました。これは、空港から市内へ向かう途中で、丸山大飯店が丘の上に見えてきた時、ガイドさんが説明をしてくれた後での会話でした。

<久しぶりの龍山寺>
 ハワードプラザホテルにチェックインした後、すぐにMRTを使って龍山寺にやって来ました。この日は、まだ何回もMRTに乗る予定なので、早速、忠孝復興駅で一日乗車券を買い求めました。何回も回数券を買ったことがある駅です。ワンディチケットの150元の値段は以前と変わっていませんでした。自動改札口は通らず、その窓口の左手を開けてもらって入場するのも同じでした。
 この忠孝復興駅に向かう途中、ホテルの界隈で面白い街路樹の花を見ました。花の形は白木蓮と同じなのに、色は赤色をしていました。いくつかの花弁が歩道に落ちていて、手にとってその花を観察することができました。普段は気がつかなかった街路樹です。
 龍山寺までは乗換えなしです。台北市の名刹、龍山寺はお決まりの観光コースになっていますので、日本人観光客によく出会います。この日も大勢の地元参拝客の合間に、何組かの団体客がやってきていました。昼食は遅くなりましたので、龍山寺界隈の屋台で50元の海苔巻きと稲荷寿司のパックを買って済ませました。
 この見慣れたお寺で、最初に「おやっ!」と思ったのが本堂でした。今までは実物大の写真パネルが設置され、再建工事が進められていたからです。今回は見事に再建がなって、以前よりも大勢の参拝客で賑わっているようでした。何度も写真を撮ったお寺ですが、改めていろんな角度から写真を撮り直しました。
 龍山寺は、台北では最古の寺院で、1738年の創建とされます。ご本尊は観音菩薩です。お賽銭を払わないお寺、と言うより、賽銭箱に小銭を入れてはいけないお寺であることを教えてもらったことがあります。今回もそのアドバイスに従いました。奥の院では道教の神々が祀られていて、道教と仏教が仲良く共存しているお寺です。
 創建以来、台風、地震、戦火で何度か損壊しましたが、そのつど再建されたとされます。第二次大戦の戦禍も免れることは出来ず、戦後に復興されたのが現在の建物です。今回の本堂再建は修復工事だったようであり、金箔をふんだんに使って内装され、眼を見張るような賢覧豪華な造りとなっていました。
 この日、もう一度夜に参詣しましたが、ライトアップも一段と見事になっていました。線香の煙と蝋燭の炎が絶えず、夜も大勢の参拝客で賑わっていて、相変わらずでした。檀家の人が、火が付いた大きな線香を渡していましたので、私もこれを貰って参拝しました。長さが50cmはあろうかと言うジャンボ線香です。
 線香立てには灰が積み重なっていて、ここへ軽く投げ入れると、うまく線香が立つようになっています。見様見真似で試してみましたが、手で立てるより簡単に出来ました。何より熱い思いをしないで済みます。
 寄進の図書類も相変わらずでした。本堂の再建を祝ってのためでしょうか、以前よりはるかに多くのお経の本や観音菩薩などのプロマイドが積み上げられていました。今回も、小さなお経の本1冊と、トランプほどの大きさの20種類ほどのプロマイドを頂戴してきました。有難いことです。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

<士林夜市>
 毎回、いくつかの夜市を見学しています。屋台や市場を見学するのが旅の楽しみです。MRTの回数券を最初に入手しましたので、MRTで行ける所なら、取り敢えず何処へでも足を運ぶと言うこともありました。龍山寺駅から士林(シーリン)駅までは、台北駅での乗換えとなります。
 ガイドブックから少し引用してみます。『士林は台北の郊外に位置する文教地区で、最近ではベッドタウンとして開発が進められている。かつては籐家具の街として知られてきたが、最近では士林夜市の街として有名になった』と紹介されていました。
 確かに夜市を歩く人は、若い人が圧倒的に多い。個人としては、飲食店は多いものの、アルコールが飲める店が少ないのが残念な点です。
 MRTでは士林か剣譚で降りればよく、士林駅からは高架の西方面を南下、剣譚駅からは西方面を北上すると士林夜市にたどり着くことが出来ます。今回は剣譚駅のほうでMRTを降りました。台北駅を出て、しばらくしますと、MRTは高架になってきます。
 軽く飲める店が見つかったら、士林でも飲んでみたいと思いましたが、なかなか注文に合った店は見つかりませんでした。薄暗いうちに士林夜市にやってきましたが、すっかり日が落ちて晩酌の時間になりましたので、元来た経路で、華西街夜市に戻りました。

<華西街観光夜市>
 昼のうちに一度この界隈にやって来ましたので、この日、二度目の華西街観光夜市見学です。鳥インフルエンザ問題では、この近くの西面(シーメン)から華西街観光夜市一帯が封鎖された様な話を聞いていましたので、もう少し詳しく様子を探っておく考えもありました。
 以前目撃した中で、生きた鳥などを籠に入れ、積み上げて売っていた一角がありました。しかし、かなり小まめに回ってみたものの、今回は見つかりませんでした。その代わり、道路拡幅工事らしい未舗装の道路に脇に、取り壊された商店街を2箇所ほど見つけました。その辺りが鳥インフルエンザ騒動の影響を受けて、手が入った部分かも知れません。
 アーケードの中も一通り見て回りましたが、蛇料理の店は何軒かそのまま営業していました。当然ながら、爬虫類は鳥インフルエンザやサーズ問題には無関係だったようです。
 ところで、この夜市にやって来たのは、晩酌が主目的です。明るいうちに念のため、なじみの店の位置を確認しておきました。その時間、店はまだ閉まっていたものの「伝統」の看板に見覚えがありました。暗くなっても間違えずに「伝統」の店を探すことが出来ました。と言うより、暗くなってからの方が探しやすいものです。
 店先に顔を出しますと、すぐに店のママが気付いてくれました。今までは30代くらいの男の人が中華鍋を使って料理をしていましたが、今回はママが料理を作っていました。1年半前に見た時、その男の人は、利き腕の手首に包帯をしていましたので、「腱鞘炎でも起こしたのでは?」と心配していましたが、その勘が当ってしまったようです。
 ママがいつもの通り、ガラスのネタケースの品を示してくれましたので、その中から3種類を選びました。席はいつもの壁際の場所が空いていました。その場所もママがよく覚えてくれていて、すぐにその席に案内してくれました。
 ネタケースで選んだ品は、定番の貝のピリカラ漬け、茹でピーナッツと、それに捌いた蟹でした。多分、渡り蟹でしょう。飲み物も、いつものようにビール1本を飲んだ後、紹興酒を1本頼みました。
 晩酌を終わりそうになった時、いつものようにデザートのプレゼントが出てきました。見た目はトマトで、切り方も同じでした。しかし、歯ごたえと味はかなり違っていました。野菜と言うよりフルーツ感覚でした。翌日の基隆見学の時、果物屋さんの店先で知ったことですが、この食物は「黒柿」の名前でした。
 「ニーハオ」と並んで僅かに使える中国語の「シェ シェ」を使ってデザートのお礼を兼ねて勘定を頼みました。請求されたのは450元でした。ママはメモ用紙に数字を書いてくれていました。日本円で1500円見当です。お釣りの50元をチップで渡してお店を出ました。
 チップを払うような高級な店ではないですが、いつも美味しく戴くお礼の積りです。これでも、日本円では、2000円からお釣りがくる勘定であり、極めてお値打ちです。10回近くこの店を利用しましたが、一度も日本人を見たことがありません。私のお気に入りの庶民的な店です。晩酌の後は、夜の龍山寺を見学して、一旦ホテルに戻りました。

<夜のテレビ報道>
 今回の旅行では、定期的にテレビのお世話になりました。ニュース番組が伝える、総統選挙後の大もめの台湾政情から眼が離せなかったためです。テレビでは選挙疑惑、殊に銃撃疑惑を巡って大規模な抗議行動が起きており、フルタイムで報道がされていました。
 テレビでは、連戦候補とその支持者、陳水扁候補とその支持者の主張を交互に報道したり、有識者たちによる討論、物価問題、失業問題などの解説を取り上げていました。その番組の中でも、慶福門、中正紀念堂の現場状況を、画面を分割してリアルタイムで報道していました。日本政府の反応は伝わっていないようでした。もっぱらアメリカ政府の反応を番組に挟んでいました。
 テレビで報道される範囲では、流血騒ぎになるような危険な状況は考え難かったので、一度現場状況を見に出掛けることにしました。パスポートなどは部屋のセーフティボックスに入れて、出来る限り身軽な格好で出掛けることにしました。カメラも上着の横ポケットに入れて、完全なフリーハンドにしました。

<夜の中正紀念堂>
 テレビで見る限り、抗議行動は整然と行われており、家族ぐるみでの参加者も多いように見受けましたので、現地の状況を見に出掛けることにしました。総統府前広場が最前線であり、中正紀念堂にも多くの人が集まっているとの報道も繰り返されていました。総督府前広場は、空からの取材を含めて「慶福門」の呼び方で報道されていました。
 最初に出掛けたのは、中正紀念堂の方です。何度も乗ったMRTを使いました。台北駅で乗り換え、南へ二つ目の中正紀念堂で降りました。この辺りも、HISの現地ガイドさんから立ち入りをしないよう注意されていた区域です。
 電車の中でも抗議集会に出掛ける人を見かけました。テレビで見た黄色のビニル雨合羽と、台湾国旗がシンボルでした。若い人のグループや家族連れなどが目に付きました。車内全体を見回しますと、やや混んではいたものの、満員ではありませんでした。
 地下鉄を降りて少し北に歩き、大中至誠門に向かいました。雨は降っていたものの、傘を差すほどではありません。大きな国旗を持った若い人達の後ろを歩きましたが、悲壮感や切迫感は無く、やや早足程度で歩いていました。至誠門は開放されていました。台北のシンボルの一つであるこの門は、煌煌とライトアップされていました。
 脇の門を潜る時、守衛さんが詰めているのを確認できましたが、規制をする気配はまったく無く、自由に出入りが出来ました。紀念堂の中には電飾の宣伝カーが停められ、屋台もいくつか出ていました。全体に静かな様子で、音を出していたのはこの宣伝カーだけでした。
 至誠門を入った左右には、国立の音楽堂や劇場があり、室内には明かりが灯っていました。天候を考えて、この中で集会が行われたり、休憩所に使われているのではないかと推測しました。しかし、中まで入って確認することは、さすがに躊躇しました。離れた場所から、デジカメに収めました。
 この場所にやってきた人達は、総督府前広場の方に移動をしているようでした。私もこの流れに乗って移動をしました。と言っても僅かな距離です。後で地図で確認したことですが、中正紀念堂の北隣が国民党本部で、国民党本部西隣の五差路に慶福門があります。この門が、総督府からは500m足らずの位置にあります。

<国民党本部>
 人の流れに乗ってやって来たのが国民党本部前でした。正面には孫文の筆になる掲額「天下為公」がありました。この場所から慶福門、総督府前のバリケードまでは、人で溢れかえっていました。
 国民党本部の正門は開け放たれており、誰でも自由に出入りが出来ました。中に入ると、係りの人が鉢巻やら国旗を渡していましたので、私も記念に貰ってきました。これを手にしていれば、抗議集会に紛れ込んでも、不審に思われることが無く便利でした。
 党本部の中も人で溢れていて、テレビで状況を確認する人達や、ホールのような部屋には、次の行動に備えて椅子で仮眠する人達がいました。壁や柱には銃撃事件の疑惑を写真入で掲示してありました。これらの様子を、目立たないよう、フラッシュを焚かずにデジカメに収めました。
 国民党本部に掲示してあった、銃撃事件疑惑に関しては、写真やタイトルから判断しますと、「自作自演説」のようでした。少なくとも陳陣営が打った起死回生の戦術であることを糾弾しているようでした。殺気だった重苦しいものではなかったものの、どの支援者の顔にも緊張感と高揚した雰囲気が漂っていました。

<バリケードの最前線>
 国民党本部見学の後は、抗議集会の最先端まで足を運びました。国民党本部の前が慶福門であり、ここを西へ500mほど進めば総督府の正門に達します。その中間で、総督府の周を囲むようにバリケードが敷設されていました。コイル状に巻かれた鉄条網と、車止めが使用されていました。その内側を大勢の機動隊員が固めていました。
 23時半頃になると、後方に何台もの機動隊の投石防止のネットを付けた車が連なって待機し、大型のクレーン車が近づいてきました。バリケードの向うでも、盾を持ち、投石用の保護マスクが付いたヘルメット姿の機動隊が整列して備えていました。先刻までは、全員が整列まではしていなかったはずです。横隊になって最前列を固めた人以外は、先程までは多少はリラックスした様子でした。いよいよ、強行排除の時間が切迫している雰囲気になってきました。
 海外旅行中に、この強制排除に遭ったり、トラブルに巻き込まれるのは避けたかったので、これを機に総督府前広場を離れました。小雨はまだ降り続いていました。最寄の駅である台大病院前から乗った遅い時間のMRTは、がらがらに空いていました。

【旅行時期】2004/03/26~2004/03/28
【エリア】台北
【テーマ】
【投稿者】旅人のくまさん

中国旅行記6(19):2月12日(1)上海・魯迅縁の紹興人家、魯迅記念館(by 旅人のくまさんさん)

ピーナッツ
<2005年2月12日(土)>

 今日も、午前中は遅い時間からの行動でした。旅行社を使わない自由旅行は、この点が実に便利です。昨晩は3時過ぎまで自宅で色んなお話をしていましたので、ゆっくり午前の時間を過ごしました。この日のメモには、「曇り 13時45分、魯迅所縁のお店到着」とだけ書いていました。それ以外はEnちゃんの通訳でお聞きしたS.P.先生との話題のメモでした。

<Ogさんが作ってくれた朝食>
 朝食は、皆さんより早起きしたOgさんが作ってくれました。ご飯に味噌汁、マリネ風のサラダと焼魚と海苔といった本格的な和食でした。Ogさんには、全く頭が下がります。
 昨晩のオペラ座の怪人の公園の余韻を、公演冊子で楽しんだり、書店やレコード店で買い求めたVCDなどを見ながら午前中はゆっくりと過ごしました。私の場合、DVDはローマの休日と名探偵エルキュールポアロのミステリー・ロッジの2枚、VCDは桂林と西安の旅行案内の2枚、CDはポリーニのリストのピアノソナタ2枚の合計6枚でした。
 これらの料金は、日本で求める場合と比べてかなりの格安です。例えばCDだと、1枚、300円くらいでしょう。このなかでVCDは日本の機械ではそのまま再生できない可能性がありましたので、大型のテレビに映して、内容を確認しました。もし、日本で見られなくても、元が引けるくらい安い値段でした。
 日本へ戻った後、直ぐにVCDをパソコンで再生しました。そのまま自動再生は出来ませんでしたが、画像もバックの音楽もちゃんと再生できました。次回からは、自分用のお土産用に沢山買い求める予定です。

<魯迅所縁の店、咸亨酒店>
 今回の盛りだくさんの旅行を更にバラエティ豊かにしてくれたのが魯迅所縁の場所や記念館の見学でした。魯迅所縁の酒店もありました。
 その魯迅所縁の方面へは、乗換駅まで電車で行き、そこからタクシーにしました。まだ旧正月の最中でしたし、席取り合戦が大変だと読んだためです。駅構内は、年始周りのお土産を手にした人達で一杯でした。
 タクシーは駅構内で直ぐに拾えました。そのタクシーは駅近くの抜け道を走って混雑を避け、やがて高速道路に乗りました。人道のような地下道を抜けたり、Uターンに近い経路で、地元の人でなければ分からない不思議な抜け道でした。
 上海市内の高速道路は全て無料ですから、料金所で混雑することも無く、料金の心配もないので、大変便利です。普段の経路とは違うコースを通って、上海東北方面に向かいました。魯迅所縁のお店で昼食を摂るためです。
魯迅所縁の店、その店の名前は咸亨酒店です。英語表示では「Old Xianheng Hotel」です。お店の雰囲気は、写真の方をご覧ください。
 この店でEnちゃんが選んでくれたのは、何となく酒の肴に合うような品々でした。少し味が濃い、茹ピーナッツ、茹そら豆が、その始まりでした。つい、紹興酒を注文しました。
 魯迅先生を偲ぶに相応しいお膳立てでした。店先に白い紹興酒の甕が並んでいました。これから金属製の首に長い容器に移されて出されたのでしょう。いつもの瓶詰のイボトルとは違った雰囲気で飲むことが出来ました。

<魯迅記念館>
 魯迅記念館は総工費5000万元を要したとされます。この半分である2500万元を姉妹都市である大阪市が寄贈したようです。13円/元で換算しますと、3億2500万円となります。
阿Q正伝等の著作で、世界でも著名なこの作家は、日本との縁が深く、姉妹都市の大阪市がこの記念館の建設に一役買ったとあれば、大変に喜ばしい限りです。近代的で、まだ新しいこの記念館の2階には、魯迅に因む多くの展示物や、写真を元に再現された蝋人形などもあります。
 上海市の東北部は少し治安に問題の地域もあるようですが、日本人観光客にもっと行ってもらいたい観光スポットに生まれ変わっています。交通アクセスを含めてガイドブックにも紹介してあります。
 記念館で求めた魯迅の著書に「漢和対照・阿Q正伝」があります。中国文学出版社の刊行になる廉価版です。背表紙を左にして開くと漢文、右にして開くと和文となる面白い装丁です。漢文が45頁、和文だと倍に近い79頁になります。この小冊子を纏めながら、和文の方を紐解いてみました。随分昔に読んだ記憶もありますが、全文だったか、抜粋された教科書辺りだったかも、記憶が定かではありません。

<多倫路文化名人街の散策>
 いったんは止んでいた小雨がぶり返してきました。こんな時には、中々タクシーが拾えないとのEnちゃんの判断から、チョウさんの車の都合を聞くことにしました。幸い、午前中の周荘の仕事が終わって、上海に戻られているようでした。間もなく見慣れたチョウさんの車が魯迅公園にやって来ました。40万平方のこの公園の中に魯迅の墓が移され、記念館も建っています。
 乗せてもらったと思ったら、すぐに下車です。魯迅公園と多倫路文化名人街が近くのためでした。この町の散策の時には小雨も止んでいました。1920〜30年代に魯迅をはじめ、多くの文化人が暮らしていた場所です。魯迅の親友として知られ、その後の中日友好に尽力された、内山書店で有名な内山完造さんも暮らした場所です。
 魯迅は余りにも著名ですから、ここでは内山完造さんのことを、インターネット情報などを参考にして記しておきます。以下、敬称を略します。
 『1912年、キリスト教に入信した内山は、牧師の紹介で目薬会社の海外出張員となって、中国へ渡りました。目薬の宣伝行商のために上海の自宅を留守勝ちの内山は、妻の美喜の気晴らしのために、内職として、自宅の玄関先で本屋を始めさせました。1916年のことです。キリスト教関係の書籍100冊ばかりで、内山書店は産声を上げました。
 その内山書店の常連に魯迅がいました。住居が近かった魯迅は、よく散歩のついでに内山書店を訪れました。以降、内山と魯迅の親密な交際は続きました。
 白色テロや第1次上海事変の時には、内山が魯迅を匿いました。内山の紹介で魯迅との対談をした作家には金子光春、横光利一、林芙美子、鈴木大拙などがいます。魯迅の死去に際して、内山は宋慶齢や毛沢東、アグネス・スメドレーとともに、葬儀委員を務めました。
 1945年の日本降伏、いわゆる上海解放後、内山は日本へ半ば追放されました。
 日本帰国後、内山は中国人の庶民と中華人民共和国の生の姿を語るための全国行脚に出かけました。1950年に日中友好協会が結成された時には、その理事長となりました。しかし59年に、招待された旅先の北京で、日中国交回復を見ることなく、74歳の生涯を閉じました。今、内山は生前の意志を汲まれて、夫人とともに上海の墓地に眠っています』
 これらの紹介文章はインターネットから引用させていただきましたが、魯迅の葬儀の写真など、多くの資料が記念館に展示されていました。中でも再現された内山書店は重要な位置を占めていました。

<精進料理の夕食>
 今晩はS.P.先生、Ya先生とご一緒に精進料理を楽しみました。日本でもお寺や専門店で作られていますが、仏教伝来の地の中国の方が、この点でも先輩であることは疑いがありません。
 この日、孫濱先生が頼まれた料理は大変な量と品数でした。Enちゃんが先にお聞きされていたようで、勘定を全てS.P.先生が支払っていただきました。改めてご馳走様になりました。全ての写真を収めることはできませんでしたが、外観、食感など、さまざまな工夫を凝らして作られた料理の数々でした。
 例えば、サラミソーセージを模した料理は外観も、食感もそっくりでした。小海老の剥き身に模した具も見事でしたし、鶏料理を模したもの、鍋料理も出されました。飲み物は朝鮮人参などが入った薬味たっぷりのものが固形燃料で温めてありました。何杯もお代わりをしました。デザートの出来栄えも見事でした。普段は食べない私もココナツを使ったケーキを完食しました。
 それにしてもすごい量の品数でした。量の方は、普通、中国料理では10人前位が1品で出されるためのようでした。全員で6名でしたから、どうしても半分くらいは残ってしまいました。それでも、お持ち帰り用のパックが用意されましたので、余り無駄になることは無く、安心しました。
 話題の中では、S.P.先生から愛知万博の話が色々と出されました。最近、愛知万博特集のテレビ番組があったようです。その中で、万博を始め名古屋市、愛知県の紹介もされたようです。名古屋市の人口、約200万人の情報もお持ちでした。「上海の南京路の遊歩道には、一日100万人の人出があります。名古屋市の人口の半分です」といった具合です。
 私達が日本を発った直ぐ後、大幅な円安で106円/ドルになったこともご存知で、皆にその理由をご質問されましたが、咄嗟には回答が出せませんでした。日本へ帰った後で、私なりに溜まった新聞で確認しましたが、円安より、ドル高が原因のようでした。しかし、拾い読みした新聞記事からの推測なので、正確な分析ではありません。
 私の質問の1つは、上海の人口に関するものでした。お聞きした人によってかなりの差がありました。前回の旅行では「上海に戸籍を有する人が1600万人、盲流と呼ばれる戸籍がない人が300〜500万人」と言う「推定」でした。今回、孫濱先生がお話されたのは、「1300万人が戸籍を持ち、流動人口は300万人程度が公式数字」と言うことでした。

<夜は足裏マッサージ>
 食事の後はEnちゃんから足裏マッサージへ行きましょうとご両親に勧められたようです。そのお話をお聞きして、こちらからもEnちゃんを通じて再度お勧めしました。しかし、ご遠慮をされたので、ご両親をチョウさんの車で家の近くまでお送りした後、虹橋(ホンチャオ)に向かいました。マッサージの専門店、「虹橋三希会所」がある方面です。天山路になります。
 車の中からEnちゃんが携帯で予約と取ってくれましたが、大繁盛のようで、人気のマッサージ師の方は、既に2時頃まで予約で一杯だということでした。小合さんが全身マッサージをやっていただき、非常に肩が軽くなったといって楽しみにしていた人です。それで、仕方なくまだ予約が入っていない、他の人に変更されました。
 Ogさんは全身マッサージ、他の3人は足裏マッサージを選択しました。その日の疲れが取れて、リフレッシュできる1時間余りです。私の場合、土踏まずのある部分を強くマッサージされると、痛みが走ります。しかし、安心して任せていると、痛みが苦痛ではなくなります。この日も十分に満足できる足裏マッサージでした。
 ホームステイの自宅近くのマッサージに比べると、少し割高ですが、それを超える内容のあるマッサージです。高いといっても、1時間60元、日本円で800円程ですから、日本の料金とは比べようがありません。この一帯は、商社やメーカーの上海勤務の人達の家族が住む、いわゆる日本人街があります。お店の人も日本語が話せる人が多く、日本語の雑誌類も備えてあります。そのうちの何冊かを持ち帰りましたが、日本人駐在者向けに、コタツのカタログ等、色々と便利な情報が満載でした。

<初戎の夜>
 運転手のチョウさんが、「12時前には家に帰りたい」と、Enちゃんに話されていたようです。家で初戎の爆竹などが用意されているためのようでした。今日のマッサージの予約は、そのことも踏まえて、早い時間となっていました。11時前には自宅に戻れましたから、上海の東北方面に住んでいるチョウさんも、無事、ご家族との約束の時間に帰られたことでしょう。その虹橋から戻る途中の高速道路は、大晦日の晩と同じように爆竹や花火の煙で霞んでいました。打ちあがっている花火を見学しながらの帰り道でした。
 自宅に戻ったら、直ぐに翌日の出発の準備をしました。リュック一つで出かけた旅ですが、帰りにはその倍以上の荷物になっていました。昨日の帰り、運転手のチョウさんからも沢山のお土産を戴いていました。それで、日本へ持ち帰る予定の、Enちゃんのお友達のスーツケースをお借りすることにしました。このスーツケースにお土産を詰め込んだら、丁度満杯になりました。それで愛用のリュックは、日本を出た時と同じ重さに戻りました。
 準備が簡単に済みましたので、Ogさんと軽く1杯、1階のロビーで飲むことにしました。初戎の花火、爆竹が本格的に始まるまでのあと少しの時間です。Enちゃんは残った荷物の整理、Myちゃんはこの間にシャワーです。
 零時が迫ってきましたので、Ogさんと3階のロビーに出て、皆さんより一足先に花火見物をしました。小雨が降っていたものの、花火や爆竹の支障にはならない程度でした。しかし、ガラス戸を開けると、かなり冷たい風が入ってきました。
 初戎の本番が始まりました。すさまじい音が四方八方から聞こえ、遠くでは大型の花火が次々と打ち上げられました。スターマインのような光のシャワーも遠望できました。住宅地内でも、何箇所かで爆竹と花火が打ち上げられ、またたく間に煙で霞んできました。近所での爆竹の後には、枯れた芝生に火が付きました。 上海市内の全域が光と音と煙の坩堝(るつぼ)と化しました。
こんな音を聞いては、火付専門士のMyちゃんがじっとしている訳はありません。直ぐに3階までやって来ました。シャワーをそこそこに、急いで駆け付けたようでした。寒さも忘れて、初戎の夜の、上海全土を舞台の屋外ショーを楽しみました。Myちゃんは早速「来年の大晦日、初戎も見たい」と意思表示されていました。

<爆竹のこと>
 昼食の時のS.P.先生との色んな話題の中から、爆竹について紹介します。爆竹を鳴らす謂れについて、S.P.先生から皆さんに質問が出されましたが、解答だけを記しておきます。大晦日の爆竹は「邪気を追い払う願い」、初戎の爆竹は「金を招きよせる願い」を込めて行うもの、とのことでした。
 爆竹の命名の由来は、青竹を火に投げ込んで弾ける音から来たようです。今は中国では使われなくなった名前だともお聞きしました。その時には出なかった話ですが、結婚式でも使われ、この時は「幸福を願って」鳴らされます。
 孫引きで恐縮ですが、インターネットで調べた「爆竹」は、日中辞典(小学館)では、「中国では古くから祝日や慶事の際、竹筒に火薬を入れ、火をつけて鳴らし、悪邪を追い払う習慣があり、”爆竹”という名はこれに由来する。現在では紙に火薬を包んで棹の先に付けたものを用いる。旧正月の元旦には家ごとに打ち鳴らし、街中が爆竹の響きに包まれて新年の気分を盛り上げる」とありました。
 同じようにインターネットで調べた結果ですが、10年ほど前から「爆竹禁止」をする都市が出始めました。その最初が広州です。爆竹によって怪我をしたり、爆竹の火が原因で火事が起こったり、環境破壊につながるなど諸処のリスクを考慮に入れた措置です。広州に続き、多くの都市が爆竹を禁止しました。
 ところが近年、爆竹を禁止してきた都市も、解禁し始めてきています。伝統文化としての見直しです。今回の上海市もそうですが、他には瀋陽、石家庄、杭州、天津市等です。
 解禁する条件としては、例えば天津では、2004年の旧正月には「時間の制限、場所の制限、爆竹の種類の制限」をして爆竹を許可したそうです。
 今回の上海でも、午前0時から1時間も経たないうちに、急に花火、爆竹の数が少なくなりましたから、同じような措置が取られていたようです。爆竹が終われば、直ぐに清掃が始まりました。仔細に見れば赤い紙が残っていましたが、翌朝には車道も歩道も綺麗に片付いていました。
 最後に昨年の旧正月の北京のことを紹介しておきます。爆竹は禁止されていましたが、実質的に規制がされていない状態だったようです。
 「旧正月を迎える21日大晦日夜から22日新年にかけて北京市内では爆竹や花火で火災や人身事故が相次ぎました。北京消防局は4400名の消防士と車両300台で出動準備をしていましたが、この日は出動しっぱなしでした。消防当局は、大晦日の18時から翌日6時までの12時間に444件の火災通報を受け、その内141件を火災と認定しました。 また火災だけでなく人身事故も相次ぎました。25歳の男性は爆竹の暴発で頭部を失い即死、また49歳の男性も同じ理由により死亡しました。またある病院では一晩に36名が怪我で搬送され3名が重傷、内1名が失明しました。5歳から70歳までと年齢に関係なく怪我人が出ました」とありました。
 こんなに怖いものですよ。是非、次も来たいといってみえた来年の大晦日では、Miちゃん気を付けてくださいね。


  魯迅博物館で
 上海の魯迅所縁の内山書店対訳買いぬ阿Q正伝

 日中の冷き今を解す人出よ魯迅と内山完造

  初戎の夜
 初戎再び始る上海の夜空を焦し神呼ぶ儀式

 遠花火西に東に間を措ず競合う音と光と煙

【旅行時期】2005/02/08~2005/02/13
【エリア】上海
【テーマ】イベント・祭り
【投稿者】旅人のくまさん

中国旅行記7(13):4月25日(1)桂林・龍勝から桂林へ、遇龍橋(by 旅人のくまさんさん)

ピーナッツ
<2005年4月25日(月)>

 3泊した龍勝のホテルに別れを告げて、今日は桂林への移動日です。荷物を纏めて9時に出発の予定でしたが、全員準備が出来ましたので、少し早めの出発になりました。桂林までは約3時間の陸路です。

<龍勝出発、桂林へ>
 ホテル出発の時には小雨が降っていました。その雨は、東方面の桂林に近づくほど強くなってきました。しかし、昨日のロデオ道とは違って、舗装され他幹線道路は、快適な走りでした。
 1時間少し走ったところで、お手洗い休憩となりました。ガイドさんに言われて気が付いたことですが、昨晩も休憩に立ち寄った場所でした。昨晩は照明が無く、真っ暗でしたから気が付きませんでした。電気がまだ引かれていない場所のためでした。
 今日は小さな売店も開いていましたので、つまみにピーナッツを買い求めました。三江に向かったロデオ道とは違って、今度は安心して紙コップのウイスキーを飲むことが出来ました。
 メモには「11:40分、臨桂県通過」と記していました。龍勝を出発して2時間40分が経ちました。桂林はもう直ぐです。

<陸さんの桂林と中国の紹介>
 バスの中で陸さんが話してくれた桂林紹介のメモです。箇条書きに纏めてみました。
?人口400万人、面積は2.8万平方キロ。
?4月から6月は雨が多い。年間雨量は1200mm程度。平均気温は19度C程度。
?桂林で高いビルを建てるのは難しい。概ね7階建てが限度。地下に空洞があり、毎年どこかで陥没がある。
?地震は無く、台風がたまに来ても、上陸して時間が経っているので大した被害は無い。
?雨が多いので、洪水被害は時々ある。
?工場は排水処理、排気ガス処理の関係で、順次、郊外に移転した。
?中国の中で生活しやすい都市として、いつもベストテンにランクアップされる。
?日本の熊本市と姉妹都市で、各種の交流がある。私も公式に日本を訪れたことがある。
?桂林の風景は、3億年ほど前は海底だった部分が、その後隆起し、侵食されて出来た風景。昔、桂林より南にこの風景が出現したが、侵食が進んで桂林まで北上してきた。やがて桂林は平らな地形となり、北へこの景色は移動すると予想されている。
 陸さんに、住みやすい他の都市の例を質問したところ、
 「北京、上海、広州などがランクアップされますが、本当に住みやすい町は桂林が一番」
 との答えが戻ってきました。桂林の山が50mから100m程度と低いのは、浸食作用で削られて出来た山々だからです。
 次に中国全体の話しです。まず徴兵制に関しての話です。
 「中国には徴兵制は無く、全て公募です。徴兵制を敷かなくても、高い倍率の応募者が、農村を中心にあります」
 応募者が多い理由として、次の補足をしてくれました。
 「入隊のメリットは、在籍中に技術を身に付けることが出来、退役の時には、優先して就職を斡旋してもらえるからです」
 最近の反日運動に関しては、
 「中国人の多くは、日本人に対して友好の気持ちを持っています。また、大切な隣人として友好第一とも思っています」
 との見解を話されました。日本語を勉強し、日本人を相手の旅行業務をされていて、日本贔屓になられているのかも知れません。しかし、実際にも、今回の旅行を通じて反日の場面を目撃したり、対応をされたことは、皆無でした。日本を発つ前に、中国の治安状況を心配してくれた方もいましたが、幸い杞憂に終わりました。

<遇龍橋見学>
 陸さんのお話を聞いている内に、桂林に到着しました。まずは腹ごしらえです。場所は桂山大酒店でした。今晩泊まるホテルとは別です。入口には腎臓学会会場の大きな看板が掛かっていました。格式の高いホテルでした。案内された個室も広く、ゆったりとした気分で昼食を楽しむことができました。
 食事の後は遇龍橋の見学です。生憎の雨でしたが、桂林の幻想的な風景には、むしろ好都合でした。その遇龍橋までの分岐路は、かなりひどいでこぼこ道でした。それだけに観光地化が遅れているのでしょうか、通常の観光スポットは一味違った風情が残っていました。
 遇龍橋は石で出来た太鼓橋です。辺りの景色を含めて、実に長閑な農村風景が広がっていました。山あり、川ありの、風光明媚な景観地でもあり、絶好の撮影スポットにもなっていました。
 橋の袂には小さな集落がありました。その風景を見ただけでも、普段は余り観光客がやって来ていないことが読み取れました。大きな樹の上では、小鳥が騒がしく鳴き始めました。ヒヨ鳥くらいの大きさの鳥でした。見知らない団体がきたので、警戒音を発しているようでした。その大きな樹には、巣を懸けていたのでしょう。産卵の季節か、子育ての最中だったかも知れません。
 この遇龍橋見学では、水辺まで降りて竹で出来た筏を身近に見ることが出来ました。大きな孟宗竹を、火で炙って曲げ加工してありました。幅は一間足らずです。2つの籐椅子が横に並べて取り付けてありました。二人乗りの観光筏ということでしょう。
 陸さんの話では、ヨーロッパの観光客はこの観光筏を使って、のんびりと桂林の散策を楽しむ人が多い、とお聞きしました。団体行動が多い日本人と違って、いい意味での個人旅行を楽しむ人が多いことが

<桃源見学>
 一味違った桂林見学の、もう2つ目の見所が桃源クルーズでした。川なのか、湖なのか俄かには判断がつかない地形の場所を、船の上からの観光でした。
 船が漕ぎ出すと直ぐに、右手の楼閣から民族音楽が聞こえてきました。遠目にも民族衣装と分かる衣服を身につけた若い男女が、手にした楽器で演奏し、歓迎してくれました。女性は赤色系統の服、男性は黒色系統の服でした。
 楼閣はトン族の村で見学してきた黒屋根に白い漆喰を使った造りでした。演奏している人達も、トン族の若い人達だったようです。この時は分かりませんでしたが、後で、プリントした写真を見て分かったことです。
 次に歓迎の踊りを見せてくれたのは、ピンク色の上着に青色のズボン姿の4人組の娘さん達でした。湖上にせり出した舞台の上で、赤い扇子を手にして踊っていました。観光客がやってくると踊りが始まり、遠ざかると休憩になるようでした。
 船は天井の低い洞窟を潜りました。「潜り抜ける時に願い事をすると叶います」との話しも聞きましたが、写真を撮るのに夢中で、実現しませんでした。通り抜けた後、目に飛び込んできたのが赤い桃の花でした。桃源の名前の謂れとなっている桃であることをガイドさんが説明してくれました。花が咲いても、結実しない種類の桃だそうです。僅かな時間でしたので、あわててシャッターを切りました。
 ところで、「桃源郷」を辞書で引きますと、「陶淵明の『桃花源記』に描かれた理想郷、世俗を離れた別世界」などと解説されています。まさに、その桃源郷の語源に相応しい別世界でした。一羽だけの鵜を乗せたご年配の方が操る漁り船ともすれ違いました。その後すれ違った若い漁師さんの船には、ブリキのバケツが積んでありました。そんな光景に出会って、別世界の想いが一層強く感じられました。
 桃源にはもう1つ変わった見ものがありました。この地に棲み付いた先住民です。その正式な名称は聞き漏らしました。一見して、南方の海洋系と思われる部族でした。褐色の肌で、男子は全員、上半身裸でした。「色が黒いほど美人、美男と考える人達です」との説明を聞きました。
 こちらの先住民の人達も歓迎の踊りがありました。トン族の人達とは全く違った雰囲気の踊りでした。岸辺にはトーテンポールや水牛などの頭蓋骨が飾られ、雰囲気も一変していました。家屋も、藁葺きの様な南方の島を思わせる造りでした。
 大勢の人が踊りを披露してくれたメインの建物では、1艘ずつ船を寄せて、身近に見学することが出来ました。若い男性が多い勇壮な踊りでしたが、女性も一部混じっていました。桃源郷とは、およそかけ離れた戦いの踊りだったかも知れません。その迫力ある踊りは、写真集の方でお楽しみください。
 終点は出発した場所とは違っていて、また、トン族の造った優美な建物でした。その中には民芸品の実演や即売が行われていました。絞り技法や、ロウケツ染めで作られた作品は、見飽きない出来栄えでした。日本の染め技法や、インドネシアのジャワ更紗等を連想しました。友達から海外旅行のお土産に頂いた、ろうけつ染めの仏像の飾りも思い出しました。インドで買い求められたものです。

<子豚の丸焼きの夕食>
 最初は冗談話しかと思って聞いていましたが、この世の料理には子豚の丸焼きが出されました。2つのテーブルにそれぞれ1匹が用意されました。とっておきの桂林名物のようです。別の白い大皿には、金魚が泳ぐ様を描いた創作料理も出されました。こちらは大した出来ではありませんでした。このお店の名前は西苑レストランです。
 子豚の丸焼きは、記念写真を撮って披露が済んだ後、部屋の片隅で捌いていただきました。削った皮を葱と一緒に薄皮で包むところは北京ダックと同じでした。ところが味付けは黄皿を使ってあり、かなり甘くしてありました。それで、豆板醤や唐辛子味噌のような辛い物をたっぷり添えた上で頂きました。
 ここからは、私の推測です。外れている可能性の方が高いことを前提にお読みください。
 普段の食卓に、子豚の丸焼きが出されることは、まず無いと思います。出されるのは、国や村の年に一度のお祭りとか、結婚式のような特別の席だけだと推測します。その席には大勢の子供達が、料理を心待ちにしている風景が目に浮かびます。
 子供達は苦いもの、辛いものより、甘くて美味しいものが好物のはずです。そんな食卓のメインである子豚の丸焼きが、甘さを強調してあるのではと推測しました。私のように、甘い料理を辛くして食べることは出来ますが、辛い物を甘くして食べることは難しいことです。
 もう1つの推測は、甘味料そのものが貴重品である可能性です。生活物資が乏しかった戦後の日本でも、甘味料が貴重な時代がありました。サッカリン、ズルチンなどの人工甘味料が使われていました。今では、発がん物質として、使用が禁止された物質です。
 それにしても、随分と甘い味付けでした。貴重なご馳走を残しては申し訳ありませんので、皆で頑張って平らげました。私の前にあった豆板醤、唐辛子味噌は空っぽになって仕舞いました。

<桂林雑技観劇>
 オプショナルでしたが、今晩は桂林の雑技観劇です。全員が躊躇無く観劇を申し込まれました。中々レベルが高く、演出家も高名な方とのことで、以前は相当に高額な公演だったようです。今回はお値打ちで、元でも円でも支払いができました。
 早めに劇場に到着し、会館の前で待つことになりました。観劇は、総入れ替え制でした。正面玄関から、前の組の入場者が出口に殺到するのではと身構えましたが、杞憂でした。階段を登った2階の正面ロビーからではなく、1階から観劇を終えた人たちの退場が始まりました。入場は、奇数の番号か、偶数の番号かで左右に分かれる一寸代わった方式でした。私の場合、正面に向かって右手からの入場でした。
 演技中は当然ですが、撮影禁止でした。それで、写真でお見せすることは出来ませんが、熱演の連続で十分に満足できる内容でした。高名な演出者のことは良くわかりませんでしたが、照明の使い方など、斬新なアイデアでの舞台であることが実感できました。殊に、観客も一体とするような演出方法には、新しい息吹を感じさせられました。いきなり舞台の両脇から薄い布が飛び出してきて、観客の頭の上を覆いました。私としては、始めて体験した演出でした。
 印象に残った出し物を、思いつくままに書き記します。最初に椅子を使ったアクロバットです。高い天井にも届くほどに椅子を順番に積み上げ、その上で倒立やバランスのポーズをとっていました。さすがに危険な業なのでしょう、背中にピアノ線が付けられ、天井から吊ってありました。
 積んだ椅子を1個ずつ落とす業も見事でした。落とした椅子は怪我をしないよう、手では受け取らず、二人で持った袋の中に入れて、受け取っていました。まだ若い男の子の演技でした。
 帽子投げはグループでの演技と、個人技の披露もありました。最初は観客席の両脇から出て、観客の頭越しに帽子が飛び交うパフォーマンスがありました。女性のアクロバットでは、まるで、軟体動物のように体の柔らかさが強調した芸もありました。サーカスにつき物の道化師の芸もありました。扮装していたのは、若い女性二人でした。
 トランポリンの芸では、左右に立てられた柱に飛びついたり、交差したりとめまぐるしい動きでした。段々と演技する人数が増えるに連れ、空中衝突をしないかと、はらはらさせられました。
演技中は撮影禁止でしたが、閉幕の後は出演者がロビーに並んで記念撮影に応じてくれました。やはり、素晴しい演技をした人は引っ張りだこでした。
 この夜は遅い時間になって仕舞いましたから、真直ぐホテルに向かいました。ホテルでは、僅かに残ったシーバスリーガルを片付けてから就寝しました。


  桃源で
 洞窟を船で潜て桃源の謂れと言し赤き花咲く

 桃の花咲ども終ぞ実を持ず過し船より赤き花見る

  桂林の雑技を観て
 身の軽き子等は次々業見せて記念写真のロビーに揃う

 舞台では大人に優る大技の男子女子は未だ幼し

【旅行時期】2005/04/22~2005/04/27
【エリア】桂林
【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
【投稿者】旅人のくまさん

チェンマイ徒然草 其の三十二 ドイ・サケット(Doi・Saket)とその周辺(by ginさん)

ピーナッツ
ビザの受け取りにチェンマイ駅の近くに在るインド領事館へ行きこのまま帰ってもこれといってする事も無いのでそのままバイクを東へ向けて走らせSan kamphaengから北に向けて山裾の田園地帯を走りドイ・サケットに行く。
ドイ・サケットはチェンマイから20km足らず北東へ行った所にある小さな町で118号線の幹線道路から右手の小高い山の上にワットドイ・サケットが見える。
山裾の田園地帯はキュウリ、ピーナッツ、ジャガイモ、等の野菜や米が栽培されている、米は刈り入れが終わり次の田植えに備えて水田の土ならしが一部で始まっていたが殆どは枯れた稲株がとげとげしく列を作っている。
時期としては少し殺風景なので田植えや稲刈りの頃に来てみたいと思う。

【旅行時期】2009/01/19~2009/01/19
【エリア】チェンマイ
【テーマ】ドライブ
【投稿者】gin

カンボジア王国旅行記(5):1月31日プノンクロム遺跡、トンレサップ湖(by 旅人のくまさんさん)

ピーナッツ
<2007年1月31日(水)>
 最終日となりました。ホテルでピックアップしてもらう時間が17時10分でしたから、今日も1日観光が出きます。それで、こちらへ着てからオプショナルツアーを申し込みました。公共交通機関がありませんから、ツアーを申し込んだ方が得策と考えたからです。
 その結果が、トンレサップ湖クルージングと、プノンクロム遺跡観光を組み合せた午前中の半日観光でした。8時頃にホテルへ迎えに来てもらいました。初日、シェムリアップ空港まで迎えに来てくれた女性ガイドさんでした。

<プノンクロム遺跡見学へ、山登り>
 泊まったホテルからプノンクロム遺跡までは、南方向への移動でした。シェリムアップを抜けるとすぐに田舎の風景になりました。どの家にも高い椰子の樹が植えられ、たわわに実が付いていました。
 正確な時間は覚えていませんが、30分程でプノンクロム遺跡がある山の麓に到着しました。観光地としては整備されていなく、お土産店なども見当たりませんでした。世界遺産のアンコール遺跡群とは思えない、寂しい光景でした。見学には共通権が必要でしたが、世界遺産リストの遺跡には含まれて居ないようでした。
この遺跡見学は、一寸した山登りでした。最初が長い階段登りです。これだけでも結構骨が折れました。2日間の遺跡めぐりで、何度も階段を上り下りして、太腿が張っていましたので、尚更でした。
 長い階段登りを終えた後は、山道になりました。登るごとに視野が開け、雨季にはトレンサップ湖の一部となる緑の平野が広がってきました。雨季には、樹林も水没するようです。

<プノンクロム遺跡>
 山道を登り終えて、更に石段がありました。これを上りきったところに寺院がありました。これは遺跡の一部ではなく、新しいヒンドゥー教寺院のようでした。黄の衣を着たお坊さんも見掛けました。
 ここで、プノンクロム遺跡の概要を紹介します。ガイドブック等のアンコール遺跡群のリストには載っていませんから、別の分類になるのかも知れません。「ウィキペディア」等を参照しながら説明します。
 プノンクロム遺跡は、9世紀末から10世紀初めに建てられたヒンドゥー教の丘上式の寺院で、4方向に楼門があります。ラテライトに囲まれた中央に基壇の上に三つの祠堂があります。その祠堂にはヒンズー教の三大神であるヴィシュヌ神、シヴァ神とブラフマー神が祀られ、三神一体のヒンドゥー教の世界観を表しています。
 プノンクロム遺跡は、訪れる人も少ないようです。境内は荒れ果てていました。最初は五つあった尖塔の内、残っているのは三つだけでした。その尖塔も無残な姿となっていました。この丘には、1990年代半ばまで、カンボジア国軍が駐屯していたようです。プノンクロムの丘は、昔から重要な軍事拠点であり続けたようですが、今はそうした面影もなくなっていました。

<トンレサップ湖へ>
 先にトンレサップ湖について説明します。フリー百科事典の「ウィキペディア」等を参照しました。
 トンレサップ湖は、東南アジア最大の湖であり、クメール語で、巨大な川(トンレ)と淡水湖(サップ)の意味があります。
雨季と乾季では、その広さが大幅に異なります。1年の内、殆んどの期間は推進が1mに留まり、面積は2700平方キロ程です。夏季のモンスーンの時期には、湖からプノンペン付近でメコン川に流れ込むトンレサップ川が逆流し、メコン川から周囲の土地と森を水浸しにしながら、面積は1万6000平方キロまで拡大して、深度も9mに達します。乾季の約4倍の広さです。形状はひょうたん形をしています。
 因みに日本最大の琵琶湖は約670平方キロですから、乾季でもトンレサップ湖は琵琶湖の4倍の広さを持ちます。
 プノンクロム遺跡からトンデサップ湖は間での道は悪路でした。雨季には湖底になる道ですから仕方が無いことです。

<トンレサップ湖・クルージング>
 トンデサップ湖に繋がる水路の脇の悪路を暫く南下して、船着場に達しました。乾季には、この道の脇に市も立つそうです。今日は、その市を見ることは出来ませんでした。しかし、ビニル袋が散乱した一帯が、その場所である事を、現地ガイドさんが教えてくれました。
 「ウィキペディア」を参照して、トンレサップ湖の特徴を説明します。
 「体重100キロを上回るメコン大ナマズやフグなど600種類以上の淡水魚が生息します。トンレサップ水系で採れる魚は、カンボジア人のたんぱく質摂取量の実に60%を占める」ようです。もう少し説明を続けます。
 「水が引くにつれ周囲に養分に富む堆積物を残すため、雨季以外には重要な農地が拓けます。浮き稲などが栽培されています。トンレサップ川が逆流することで、メコン川下流の洪水を防ぐ安全弁にもなっています」
 と、その役割が述べられていました。更に、
 「トンレサップ湖はインド亜大陸とアジア大陸の衝突によって引き起こされた地質学的な緊張による沈下のために形成された堰き止め湖」と、その創成期のことも紹介されていました。
 さて、トレンサップこのクルージングですが、船がひしめき合った水路を抜けるのが大変でした。船がぶつかって、相手の船を押さないことには、水路が開けませんでした。万一、船縁に手を出したら、大怪我しそうでした。実際、手先が無い、現地のお子さんを見ました。
 乾期には、沖を目指して家の引越しがあります。その風景も目撃しました。家だけではなく、学校からレストランまで、皆水の上でした。2万人程の水上生活者が、水の上で生まれ、そして亡くなられているようです。

<午後は市内散策>
 夕方のピックアップの時間まで間がありましたから、午後は市内散策に出掛けました。その前にホテルのレストランで昼食を摂りました。部屋のチェックアウトは、出発時で良い事を確認していましたので、16時頃にホテルへ戻る予定としました。
 ホテルを出て最初に向かったのが、昨晩も訪れたオールドマーケットです。日が高い時間は、昼寝の習慣があるようです。現地ガイドさんからも、この事をお聞きしました。川沿いの大樹の下ではバイクや三輪車を停めて、昼寝をする人達を見掛けました。 シェムリアップ川の睡蓮も昼寝の時間になっていました。
オールドマーケットも買い物客は疎らでした。何枚か写真を撮って次の目的地へ向かいました。野菜や果物が豊富に並んでいました。向かった先は、現地ガイドのペン・ホーさんが車の中で紹介していた「シェムリアップで一番綺麗な公園」です。
 この公園の名前を現地で入手した地図やガイドブックを見ても、単に「広場」と記載され、名称が記載されていませんでした。ホテルからは北へ約1キロのシェムリアップ川の西側になります。
 この公園は、車から見た通り、手入れが行き届いた綺麗な公園でした。噴水があり、季節の花を植え替える人が作業に余念がありませんでした。通りを挟んで、南隣に警察署があり、制服の人が行進の訓練をしていました。西側の建物からは、楽器の練習の音も聞こえてきました。日が高い時間ですから、街を歩いている人は僅かでした。やはり、昼寝の時間なのでしょうか。

<夕方、シェムリアップ空港へ>
 予定通り、16時頃にホテルへ戻りました。チェックアウトを済ませて、早目にロビーで待つことにしました。サービスのミネラルウォーターを使っただけですから、精算はありませんでした。約束の時間まで、少し時間がありましたから、ロビーの横のレストランで、タイガー麦酒を飲みながら時間を潰しました。ピーナッツをツマミに出してくれました。
 予定の時間に、ピックアップの車が着きました。顔を出されたのは、ペン・ホーさんとは別の男のガイドさんでした。その後、3箇所ほど別のホテルに立ち寄り、空港へ向かいました。
 ところで、カンボジア入国にはビザが必要です。日本で取得して行くのが一般的ですが、空港での取得も可能です。後日のため、到着の時にその発行窓口も確認しておきました。その日の列は、大したことはありませんでしたが、時に長蛇の列となり、賄賂を強要される事もあるようです。

<スワンナ・プーム空港での乗換え>
 シェムリアップ空港の出発は定時でした。すっかり日が落ちた19時40分です。往きと同じプロペラ機でした。今度も満席でした。韓国や中国、ヨーロッパからの観光客が多いようでした。
 往きの乗換えの時には気付きませんでしたが、今回は2006年のプミポン国王の即位60周年記念行事の写真に、空港内のロビーでお目にかかりました。2005年のタイ王国旅行の際に、何度もお聞きした「来年がプミポン国王の即位60周年です。日本の天皇ご夫妻へも招待状が出されます」と言ったお話でした。
 タイでは、この記念行事の時期を睨んで、無血クーデターが起き、タクシン首相が失脚しました。記念行事は無事終了し、プミポン国王夫妻の右側の列に、天皇ご夫妻が記念写真に写られていました。


  プノンクロム遺跡で
 岡に建つ遺跡を目指し山道を登りつ眺む乾季の平野

  トンレサップ湖クルージング
 水上に生る民の子船避て茶色の川に網を打おり

  市内散策で
 街路樹は歩道の石を持上て景色重なるタプロム遺跡

【旅行時期】2007/01/28~2007/02/01
【エリア】シェムリアプ
【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
【投稿者】旅人のくまさん