豚肉とは?

豚肉(ぶたにく)とは、ブタ 豚の肉。ポーク(英語 pork)とも呼ばれる。
日本では弥生時代の遺跡から出土した従来イノシシと思われた骨が豚の骨と判明した。古墳時代の遺跡からも豚の骨は出土している。『日本書紀』、『万葉集(萬葉集)』、『古事記』に猪飼、猪甘、猪養などという言葉があり(「猪」は中国ではブタのことを指す)、その当時は日本でも豚の飼育が行われていたことが伺える。
その後、天武天皇5年675年に最初の肉食禁止令がだされ、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・ニホンザル・ニワトリ・イヌ)の肉を食べてはいけないとされたがこれに豚はふくまれていなかった。戦国時代 (日本) 戦国時代にキリスト教イエズス会の宣教師たちが、キリシタン大名たちを介して肉食の慣習を日本に持ち込んだため、一時的に豚肉が食べられるようになった。

豚肉の詳細

豚肉関連エントリー

海苔巻き続き・・「白菜と豚肉のピリ辛のり巻き」

... 「白菜と豚肉のピリ辛のり巻き」 白菜は鶏がらスープを少しふりかけてレンジでチン!して柔らかく。 中心にピリ辛中華風に炒めた豚肉を巻いています。白菜が薄味なので 豚肉はちょっとしっかりめに味付け。 豆板醤にゴマ油、擦り胡麻の風味もして ...

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給食・学食に混入した物 カッターの刃とか腐った豚肉とか

カッターの刃とか、腐った豚肉とか、給食には色々と混入していたようです。

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豚肉と雪菜のオイスター黒酢炒め

今日は豚肉と雪菜のオイスター黒酢炒め、玉子焼き、ほうれん草。塩コショウした豚肉と雪菜、下茹でしたニンジンを炒めてオイスターソース、黒酢、黒胡椒で味付けました。雪菜は宮城県産。仙台あたりの伝統野菜のようです。小松菜より少し柔らかい。 ...

豚肉と雪菜のオイスター黒酢炒め

豚肉と野菜の蒸し物

野菜強化月間の我が家です。 本日はたっぷりの白菜ともやしを使って蒸し煮にしました...

豚肉と野菜の蒸し物

お弁当のおかず☆『豚肉のピリ辛焼き』♪

2月5日のお弁当 豚肉のピリ辛焼き 茹でブロッコリー(チンして塩を振る) 青ねぎ&わかめふりかけ入りオムレツ 野菜天 『豚肉のピリ辛焼き』の作り方 ??豚肉の切り落としに塩・胡椒・酒を揉み込んでから、3~4重に折って厚みを出す。 ...

お弁当のおかず☆『豚肉のピリ辛焼き』♪

豚肉画像


豚肉旅行記

ホテル004 ★☆ ☆ デザイン・ホテル(by ASKさん)

豚肉
コペンハーゲンで最初にできたデザイン・ホテルは、アルネ・ヤコブセン設計のSAS ロイヤル・ホテルだろう。しかし、完成後は不評なように、ふつうの感覚では町の雰囲気にフィットしていないように見える。ロビーにヤコブセンがデザインした椅子があり、座れるのは嬉しいが、日本人にはそんなに座り心地がいいという訳でもない。ヤコブセンがデザインしたままの606号室は有名だが、宿泊料は1泊10万円近いのだから、これもふつうの感覚では遠慮したくなる。ヤコブセンの良さを味わいたかったから、このホテルよりもベルヴューのビーチ一帯の監視塔とか、サウナ棟、その前の水浴場、映画館、ガソリン・スタンドを見るべきだ。
その次の世代のデザイン・ホテルはDGI Byenだろう。できた当時はスポーツ協会が運営していると聞いた。中に大小の体育施設や大小のプールなどがあり、ここで試合があるスポーツ関係者の宿泊施設として作ったのかもしれない。体育施設は中央駅の目の前である。施設の中を通り抜けた奥にホテルがある。シュミット、ハマー&ラーセン・デザインが設計したモダンなインテリアが目をひく。このグループは、のちに王立図書館の新館を黒い大理石でデザインし、ブラック・ダイアモンドの愛称をとった。このホテルの部屋のシャワー室にはバスタブはない。しかし、レセプションのカウンター、階段、部屋のドア、洗面器の形や水道のレバーといった小物にいたるまで、何もかもおしゃれになっていて、気持ちがいい。そしてバスタブはなくても、宿泊客は温水プールやサウナを無料で利用できる。全体として見ると、デンマークで随一のデザイン・ホテルといえる。別棟の古い建物を利用したレストランも天井が高く、いい雰囲気になっている。他には古い建物がいくつか残っているが、かつてここは屠殺場だったところだ。駅前に屠殺場があったとは、豚肉が農業輸出の大半を占めていた国らしい。
そしていま、コペンハーゲンはデザイン・ホテルが大流行だ。市庁舎前広場に面したザ・スクエア、その数軒北にあるアレクサンドラ、駅前にあるアストリア、ヴェスタブロにあるウィーヴァー、旧市街にあるサンクト・ペトリ、中央駅から1駅目の再開発地区に新築されたアイランド、かつての安宿マーメイドはホテル27になり、トリトンもオーナーが代わって内装を一新した。新しくホテルに改築されたザ・スクエア、サンクト・ペトリは外装もデザイン・ホテル風だが、アレクサンドラやウィーヴァーの外装はかつてのままで、インテリアだけデザイナーズになっている。しかし、これだけデザイン・ホテルができれば、デンマークなのだからきれいなのは当たり前になる。デザイン・ホテルが注目されるというより、古いままのホテルが際立ってくる。どうせならきれいなホテルに泊まりたいが、デザイン・ホテルになると宿泊費が一挙にはねあがる。

【旅行時期】2009/02/06~2009/02/06
【エリア】コペンハーゲン
【テーマ】
【投稿者】ASK

「写真の無いブログ」悲しみのカンボジア(10)「遺跡」・4、神々の源「プノン・クレーン」(by ちゃおさん)

豚肉
アンコールには「アンコール・ワット」「アンコール・トム」の二つの遺跡を中心として、その周辺には幾つもの古い遺跡が残されている。何か、大和まほろば、奈良盆地の平城京、西の京、飛鳥、斑鳩、吉野、等々数多くの旧跡・名跡があるのと似ている感じである。

アンコールの北東約40キロ、幾つかの集落を通り過ぎ、一面がコメ畑の平野に出て暫らく走ると、前方に忽然と山が現われ、それは丁度大和三山の「天の香具山」に似た形の整った小山で、バイクは見る見るその山に近づき、その山の麓近くに今日訪ねる「バンテアイ・スレイ」がある。

この寺院は午前の早い時間に行くと良い。その赤茶けた臙脂色の古い寺院は、旭日を浴びて、燃えるような赤になる。全体がばら色砂岩で作られたこのヒンドウの寺は、アンコール・ワット、トムの先駆をなすもので、クメール王朝がコンポントム(サンボー)からこの地に移ってきた10世紀、最初に建設された寺院で、当時のインド様式のヒンドウ芸術が色濃く残されている。
 
「バンテアイ・スレイ」、まさにこの名前「女の砦」が示すように、寺院の至る場所にインド風の女性像が彫刻されていて、所謂「東洋のモナリザ」もこの寺にある。

嘗てアンドレ・マルローはこの地を訪れ、1個のレリーフを盗もうとして逮捕された史実が示すように、この寺院はアンコールの遺跡の中でも最も格調が高く、且つ芸術的であると言われている由縁でもある。

東面する正面の参道は今将に旭日を受けてばら色に輝き、幾つもの楼門を潜り抜けた先の一番奥まった堂宇の壁面の中にそのモナリザ像はひっそりと佇んでいた。長躯バイクを走らせ、砂埃の舞う未舗装の道路を1時間走らせてここまで来た価値はあった。

ここから更に50キロ、更に酷いデコボコ道を走り、「プノン・クレーン」国立公園の山中を走ること約1時間、この山塊の一番高い場所に「ライチの山」があり、802年、この場所に於いてジャヤヴァルマン2世が「神なる王」の儀式を行い、以後700年に及ぶアンコール王朝が始まったのだった。

その泉水は今でも乳白色の湧き水を噴き出していて、尽きることがない。攪拌、撹乱。「乳海攪拌」はここにあり、1200年の永きにわたり今日も尚、この泉は音も無く地中から乳色の水を湧出し、攪拌し続けていた。

いやしかし良く見ると、乳白色に見えた噴水は、地中の細かい白色の砂が水と混じり合って乳色に見えるのであって、水自体は透明無垢な純水だった。手に掬って飲む。甘露と言ったら嘘になるが、無色透明な味だった。

この泉から流れが始まり、シェムリアップ川になり、トンレッサプに注がれ、更にはメコンに合流し、遂には南シナ海に流れ落ちる。昔の人々にもこの道理が分っていたのだろう。

源泉から数十メートル下流には川底の大きな石に男女交合のシンボル、ヨニとリンガの彫刻が大小無数に刻まれていて、清らな流れが薄く、浅く、清流となって薄絹のベールのように流れている。数百年にわたって彫り続けられてきた人間のシンボル。飽くなき欲望。源泉。乳海攪拌。

ここから更に谷を隔てた山頂には巨大な岩石(砂岩)の上に建立された仏教寺院「プリア・トム」が有り、これまた巨大な砂岩から作られた寝釈迦「ブリア・アントン」が祀られている。
寺の展望台からは、360度の樹林帯が見渡せ、その緑の海は、ここが南方のとある場所であり、この広大な密林の中には想像もつかない奇獣、珍獣、猛獣が潜んでいるかも知れない、と。

お寺を下ったところには大きな滝があり、水量は豊富で落差も充分あり、先年見た秋保大滝に負けず劣らぬ豪快さで、滝の真近まで寄っては飛沫の冷気に身体の熱気を冷やし、漸く夢から覚めた面持ちで、ニワトリ1羽を丸まるから揚げしたのと、地元山岳民族の作った最高の料理(豚肉とハーブを和えたようなもの)の昼食を食べながら、アンコールビールを飲みつつ、このような辺鄙な場所までこられたことに感謝した。

「湧き出る乳海攪拌人の源」

【旅行時期】2008/12/23~2009/01/07
【エリア】シェムリアプ
【テーマ】
【投稿者】ちゃお

アンコール遺跡訪問 (3)(by tetsu60さん)

豚肉
12月24日(水)
今日の午前はアンコール・トムへ。 アンコール・ワットの真北2kmのところにあるバイヨン寺院を中心とする都。 アンコール・トムとは「大きな都又は大きな町」の意。 その名前どおり一辺3km、周囲12km、巾130mの環濠に囲まれた都市。 トムはジャヤ・ヴァルマン7世が12世紀末に作った仏教信仰のクメール王朝最後の繁栄を極めた王国の都。 ジャヤ・ヴァルマン7世の時代がクメール朝の全盛期で武力によりタイ、ラオス、ベトナムを切り従えインドシナ半島の80〜90%を支配した。 そしてこのことがクメール王国の財政を破綻させ、国の衰退を引き起こした。 周壁には5つの門がしつらえられて、都の中心にバイヨン寺院、王宮があり、さらに王宮は周壁やテラスで囲まれ内外に寺院が配されている。 われわれは南大門から入る。 像に乗った観光客も結構いる。 環濠を渡る南大門までの参道には左側にナーガを引っ張る神々の像、右側には同じくアシュラ達の像が立ち並んでいる、乳海撹拌を模している。 高さ8mの周壁と繋がって南大門は高さ15mくらいの塔になっていて東西南北に仏の顔(高さ3m以上、幅はもう少し狭い)が刻まれている。 仏顔は観世音菩薩。 門をくぐると内側には3頭の象(3つの頭を持った象)の彫刻があった。 バイヨン寺院の前に日本のアンコール・トム修復支援の看板が立っていた。 寺院は東向き、東門から入ると第1回廊、この回廊にもレリーフがびっしり刻まれている。 アンコール・ワットと異なるのはここには庶民の生活の様子が刻まれていること。 市場、闘鶏、豚の丸焼き、出産、ビール造り等などの様子が生き生きと刻み込まれている。 もちろん戦いのレリーフもあるが、やはり市民の生活のレリーフは当時の現実を表しているだけに面白い。 レリーフの中に戦いに行くときに火を乗せた輿を運んでいる図があったが、拝火教の影響が少し入っているのでは… 第1回廊を抜けて階段を登り第2回廊へ、ここの壁にもレリーフ。 ただし、第1、2回廊ともレリーフはヒンドゥー教の神話やチャンバ軍(現在のベトナム)との戦いの様子を彫刻してある。 第2回廊を抜けるとテラスになっていて仏顔を4面に刻んだ塔が建っている。 さらに上にあがると上部テラスへ、上部テラスの真ん中に中央祠堂、テラスの周囲に四面仏顔の塔が立ち並んでいる。 どこを見ても観世音菩薩の顔だらけ。 このバイヨン寺院もワットの寺院ほどではないがピラミッド型になっていて中央祠堂を中心にした建物は須弥山を、城壁はヒマラヤ連峰を、環濠は大洋を現している。 

バイヨン寺院を出て王宮へ。 王宮の南の城壁の外にバプー・オン寺院がある。 「バプー・オン」には「隠し子」という意味があるそうだが… 11世紀後半ウダヤディティー・ヴァルマン2世によって建てられた仏教寺院。 5層になったピラミッド寺院は5層目がワットの寺院同様急峻な階段になっている。 崩壊を防ぐための修復がなされていた。 そのため5層目から上には立入禁止。 この寺院の珍しいのはそれ以外にも円柱で支えられた2階建てになった参道、空中参道を持っていること。 

高さ5mの城壁に囲まれた王宮の中に入る。 王宮は10世紀頃建設されたらしい、が、木造建物だったらしく現在は残っていない。 ピミアナカス寺院は小さな寺院、王家の礼拝堂として建てられたらしいが、詳しいことは分かっていない。 この寺院もピラミッド状で中央祠堂には急峻な階段を登らねばならない。 ピミアナカスには逸話があって、それによれば、蛇精が女に姿を変え棲んでいて、王は毎夜蛇精と枕を交わさねばならなかった、一度でも怠ると王はたちまち死を迎え、国に災難が降りかかる、と伝えられている。 

王宮の前面には300m以上にわたる象のテラスとその北端にライ王のテラス。 ライ王のテラスは王家の火葬場だったのではないかという説もあるが、その用途はわかっていない。 このテラスにかつて閻魔大王の彫像が上座していた。 この像が苔癬に覆われていたため原住民に逸話が生まれた。 王が僧侶を殺し、返り血を浴びてライ病(ハンセン病)になり、治療に駆けつけた若い修行僧に死を命じた後、病に苦しんで亡くなり、これ以後この病は不治の病になったというもの。 もうひとつは、王が大蛇と戦って大蛇を剣で断ち切ったところ返り血を浴び、このためハンセン病になったというもの。 いずれも王はアンコールに都を定めたヤショ・ヴァルマン1世といわれている。 三島由紀夫の戯曲「癩王のテラス」の元になった逸話。 象のテラスは3つの頭を持った象の彫像やさまざまな神の彫像で支えられている。 古くからあったテラスにジャヤ・ヴァルマン7世が新しいテラスを重ねた。 このテラスから王は軍隊の閲兵をしたり祭礼の様子を眺めたりしたらしい。

例によって休憩の後、午後の観光へ。 まずはアンコール・トムの東1kmのところにあるタ・プロム寺院へ。 
ジャヤ・ヴァルマン7世により1186年に創建された東西1km、南北600mの敷地を持った仏教寺院、が、後のヒンドゥー教の寺院に改修されたらしい。 創建当時は僧侶5000人と踊り子600余人が住んでいたと伝えられている。 またこの寺院は王により創設された102の病院の管理センターでもあったらしい。 寺院が放棄されて以降寺院を巡る三重の回廊にはガジュマルの根が絡みつき、19世紀に西洋人が発見したときと同じような光景を残している。 遺跡は樹木の根によって崩壊が見られるが、あえて最小限の修復にとどめ現状を残している。 

プリア・カン寺院もジャヤ・ヴァルマン7世によりアンコール・トムの北に建てられた寺院。 王がこの地でチャンバ軍を破ったことを記念して1191年に建てた。 「聖なる剣」あるいは「勝利した王家の紋章」の意があるらしい。 この寺院にもガジュマルの根が絡んでいる。 

このツアーの最後はニャック・ポアン寺院。 バイヨン寺院の北東3kmくらいのところにあるこの寺院もジャヤ・ヴァルマン7世が12世紀後半に建てた仏教寺院。 王が貧富を問わず病人に観音菩薩の慈悲を与える目的で、ヒマラヤですべての病気を癒すといわれる聖湖アナヴァタプタを象ったといわれている。 貯水池の真ん中の人工の島に基壇を2匹のナーガが取り巻いて尾を絡み合わせ、池の周りに4つの樋嘴(仏教感における4つの偉大な川を現し、それぞれの出口は獅子の顔、馬の顔、象の顔、人間(本来は牛の頭)の顔)が置かれ、その口から聖水が出てくるというもの。 「ニャック・ポアン」とは「絡み合う蛇」の意。 

これで観光は終わり。 お土産屋に寄った後、夕食(最後のクメール料理)、そしてシェム・リアップ空港へ。 空港のトイレで半袖シャツ、半ズボンから長袖シャツ、長ズボンに着替え(何しろ気温30度のところから10度のところへ戻る)、飛行機に搭乗。 ホー・チ・ミンのタン・ソン・ニェット空港でまたまた4時間待ち。 

12月25日(木)
夜1時半にタン・ソン・ニェットを発って4時間半のフライトで福岡着朝8時。 

お疲れ様。 

<旅の雑感>
? 以前からの念願であった「アンコール遺跡」を訪れることができた。 クメールの寺院はやはりすばらしいものだった。 9世紀から12〜3世紀にかけての絢爛たるクメール文化はヒンドゥー教と大乗仏教を具現するため見事な寺院建築とすばらしい彫刻も生み出した。 特に彫刻は、母体が砂岩ということもあって削りやすかったのだろうが、花や植物、動物、踊る神々(ヴィシュヌ神やアプサラなど)、庶民の人々など驚くほどの精緻さ。 今のも飛び出してきそう。 
? 寺院については所期のものを除いておおむねピラミッド型。 敷地周囲に環濠を配し、2重ないし3重の回廊を持ち、中の基壇の上に中央祠堂とその周囲に複数の祠堂を配してある。 寺院の環濠や周壁内の池は王のみが使うことのできる沐浴場もあるが灌漑用水や生活用水としての役割もあったようだ。 いずれにしろクメールは治水についてもかなり高度な技術があったといわれている。 寺院そのものがひとつの町を形成していたと考えてよさそうだ。 
? アンコール寺院群についての謎は、これらの建造物が突然放棄され、クメールの民たちが忽然と消えてしまったこと。 700年もの栄華を誇った都から人々がいなくなる。 この地は古来からシャムやチャンバと争いを繰り返してきた地、他国の侵略によるとの説、民衆の反乱によるとの説、治水の失敗によるとの説などいろいろあるがまだ分かっていない。
そして1858年、フランスのアンリ・ムオーがアンコール遺跡を発見した。 正しくは西洋人が森の中でアンコール遺跡を始めて目にした。 現地人は遺跡のあることは知ってはいたが、その価値には気づかなかった。 そして保護・修復の手が差し伸べられたが、相次ぐ内戦やベトナムによる侵略により荒廃は一段と進んだ。 アンコールは戦場にすらなった。
? アンコールの修復は日本、ドイツ、インドなどの協力により進められているが、砂岩で建てられた建物は風化が激しい。 ワットやトムでもなかなか修復が進んでいない。 タ・プロムのように樹木に絡まれた姿をそのまま残しているところもあるが樹木に絡まれ崩壊している遺跡もある。 樹木の根を切ったり、支柱を立てたりメインテナンスに努めているようだが急がないと、この貴重な遺産が失われることになる。 UNESCOのみならず我が国ももっと協力の手を差し伸べてはどうだろう。
? この国は貧しい。 シェム・リアップは比較的良いほうらしいが、それでも平均年収は20〜30万円くらいだそうだ。 この町は建築ラッシュでスーパ・マーケットやマンションがあちこちで建設されている。 朝からバイクや自転車で建設現場に向かう人たち、内戦やたびたびの戦争で教育を受けていない人たちが多いとのこと。 それ以上に深刻なのは子供たち。 どの遺跡に行っても子供が絵葉書や本を買ってくれと付いてくる。 断っても断ってもしつこく付いてくる。 汚れたシャツに裸足、そして薄汚れた悲しそうな顔、学校にも行かず、行けず、年齢は5〜6歳から14〜5歳くらいまでの子。 相次ぐクーデターやポル・ポトによる虐殺、ベトナムの侵略などにより孤児になった子あるいは親の代わりに働かねばならない子。 運の良い子は学校に行ける。 学校は2部制、午前の組は7時から11時まで、午後の組は1時から5時まで、一応制服らしきシャツとスカートははいているが裸足。 裕福な子供たちの学校もあって、そこでは清潔な服を着て自転車に乗った子供たちが通っている。 この格差の大きさ。 いまだ絶えない地雷の被害も深刻だ。 遺跡の参道では5〜8人くらいのグループが楽器を演奏している。 ほとんどの人が足がない(地雷の被害者といっているが)、CDを売って生業としているとのこと。 われわれはもとより世界がもっと彼らを救うことに尽力すべきだろう。 最近の争いのほとんどは貧困に起因しているといっていい。 世界はもっと真剣に貧困との戦いに取り組むべきでは。 アジアに立する日本の役割はもっと大きい。 つまらない海上給油などに金を使うよりNGO、NPOを活用しアジアの国々にもっと手を差し伸べては。 
? クメール料理は初めて食した。 前菜が出てスープ、次にご飯と本菜が3〜4種くらい、最後にデザートとお茶かコーヒー。 前菜は生野菜あるいはサラダ類(これを前菜とはいわないだろうが…)。 スープは野菜がたっぷり入っている、味はセロリのようなあるいはハーブ(何のハーブか分からないが)が入っているような少し変わった味、が、結構美味しい。 本菜には豚肉と野菜の炒め物、白身魚(パーチ(スズキ)か?)と野菜の炒めたものだったり餡かけだったり、時には牛肉だったりする。 味は薄味、やはりハーブの味が強い。 カンボジア料理は中華料理の影響が大きいそうだ。 もっと辛い料理かと思っていたが、薄味で比較的食べやすい。 

完   了

【旅行時期】2008/12/21~2008/12/25
【エリア】アンコール・ワット
【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
【投稿者】tetsu60

中国旅行記7(3):4月23日(1)三江・村の青空市、銀水トウ寨(by 旅人のくまさんさん)

豚肉
<2005年4月23日(土)>

 ガイドさんにお聞きして付けた昨晩のメモからです。「朝食は2階のレストランで7:00から、モーニングコール7:30、ホテル出発9:00」と記していました。昨晩遅かったものの、遅刻する人も無く、旅行2日目は、予定通りのスケジュールで始まりました。今日の楽しみは、龍勝の棚田見学と、先住民族村の見学です。

<村の青空市>
 ホテルからは、川沿いの道を下って集落を過ぎるコースとなりました。昨晩、暗い中を登ってきた一本道です。川沿いに下りきった集落で大渋滞に巻き込まれました。車が少ないこの一帯で大渋滞とは、不思議な話しです。
 その理由は、道の両脇に出された青空市のためでした。普段、車が少ないから、交通ルールが確立していないためでしょう。車一台は何とか通れるスペースが道の真ん中にありましたが、対向車があったら駄目です。青空市の品物やシートを踏みつけても、通れないスペースになっていました。交通規制をする警官などは全く見かけませんでした。多分、「こんなところを通る車の方が悪い」のが地元の常識なのでしょう。と言っても、一本道ですから。ここを通らないわけにはいけません。
 長い時間をかけて、片方がバックをして、何とかこの難所を通り過ぎることが出来ました。しかし、その渋滞のおかげで、面白い青空市の風景を、バスの窓からしっかりと見学することができました。圧巻は、歯医者さんと目医者さんでした。歯医者さんは、テーブルの上に入れ歯を並べての商売です。本物の医者ではなく、日本で例えれば「自家営業の歯科技工士」と言ったところでしょうか?もちろん、実際には無い商売です。
 青空市には大勢の地元の人が繰り出していました。今日は土曜日ですから、学校も休みなのでしょう。子供達の姿が多くありました。青空市というより、村で一番の、お祭り騒ぎと言った方が当たっているかも知れません。
 驚いたのは歯医者、目医者だけではありませんでした。実に様々な品物がシートの上に並べられたり、俄か造りのテントの中に吊るされていました。電化製品、玩具や衣類などです。女性の下着専門店(?)が多かったのも吃驚でした。
 空いていれば数分で走ることが出来る距離を、通り抜けるのに1時間程はかかったようです。夜もこの場所を通りましたが、暗くなっていましたので、渋滞に巻き込まれることはありませんでした。明かりの用意がありませんから、明るいうちだけの市でした。

<トン族、銀水トウ寨訪問>
 広州で一緒になった陸さんとは別に、龍勝の町の中で、この地域の現地ガイドさんと合流しました。まだ高校生くらいの若いトン族の女性の方でした。お名前が付(フー)さんと自己紹介されました。この会話はすべて陸さんが日本語に通訳してくれました。付さんが一生懸命話されるので、陸さんは通訳、要約にかなり苦労されていました。
 トン族の村、銀水トウ(人偏に冬の字)寨の入口はダム湖に面したところにありました。そのダム湖に注ぐ小川には、立派は橋が架かっていました。「建築の民」と称されるトン族の手になるものです。村の名前は白い飛沫を上げて流れる様を「銀水」と比喩したのではないかと直感しました。この後、もっと本格的はトン族の建築物を見学しましたが、驚嘆に値する建築技術を持った民族です。
 ガイドブックに拠れば、「建築図面は持たず、物差しとなる棒一本を使って、村の指導者を中心に、全員参加で作り上げる。釘は一本も使わず、ホゾを切った木組みである」と紹介されていました。日本の伝統技術である、宮大工さんと同じ類の高度技術かも知れません。
 この銀水トウ寨に向かうバスの中で、予めイベントが紹介されていました。それは、村の若い人による民族舞踊と音楽、族長さんのトン族村の歴史紹介でした。族長さんの話はご年配の方の演説、長広舌かと覚悟していましたが、実際は全く違った貴重で、素晴らしいものでした。
 そのイベント広場は、立派な橋を渡って、石段を暫く登った場所に設えられていました。石段の左横には、急流となって飛沫を上げる小川がありました。
 最初に、頭にターバンのような巻物に紫色の上着を着け、マイク片手に司会者が現れました。この方は、随分若く見えました。この後、村長さんこと、長老が姿を現されるのかと勘違いしました。実は、若く見えても、この方が、村長さんご自身でした。現在51歳であると、自己紹介もされました。
 村長さんの語る村の歴史、ご自身の生い立ち、遍歴がマイクを通じて語られ始めました。通訳をしてくれたEnちゃんの話しでは、「実に流暢な標準語、北京語です」との説明がありました。
今回の旅行では、人物としては一番感銘を受けた方となりました。話しのクライマックスの場面では、S.P.先生も同感の意思表示をされていました。やはり、文化人であるということだけで迫害を受けた過去を思い出されたからでしょう。

<村野若者達の唄と踊りと演奏>
 呉村長は、龍勝の名前の由来が秦(?)の時代に遡り、攻め入った敵軍の戦勝碑にあることや、
 「1996年に観光を開始して以来、村の経済が向上し、1998年に始めて電気が点きました」
 「このイベント広場も、観光収益が上がって、作ることが出来ました」 
と、紹介してくれました。さて、村長さんの司会で始まった村の娘さんと若者達による歌と踊り、そして楽器演奏のことです。1996年には、中国の伝統芸能としてパリでの公演も経験したことがあると紹介されました。中国の中央テレビでの出演もあるそうです。
 殊に独特の歌唱法については、お聞きしたことや、私の印象を、少し詳しく紹介します。バスの中では、現地ガイドさんを通じて、次のような日本語での説明がありました。
 「トン族の歌は大別すると、『小歌(しょうか)』と『大歌(だいか)』に分類されます。『大歌』は、主に屋外で歌われます。大人も子供も歌うことが出来るものです。『小歌』は、主に室内で歌われます。若い人達だけが歌います」
 と、言ったことでした。この日歌われたのは、少歌、大歌ともに、3曲ずつでした。大歌は鳥の鳴き声、蝉の鳴き声などを模倣したものでした。余り大きく口を開けずに、体全体を共鳴体にした歌い方です。遠くへも聞こえるようです。トン族の歌は、女性でも裏声を使う独特の歌唱法でした。
 アルプスのヨーデルや、モンゴル族の歌い方にも共通点があるように思えました。モンゴルの歌い方は、この箇所を書きながら、昨年6月のフランス旅行の際に、ポンピドー国立文化芸術センター広場での大道芸の後に買い求めたCDを改めて聞き直してみました。男性の歌唱ですが、独特の高音と、まるで楽器が奏でる迫力ある低音が流れてきました。
 女性の裏声では、美空ひばりさんを直ぐに思い出しました。世界的な指揮者である岩城宏之さんをして「モーツアルトに匹敵する天才」と讃えられました。ジャンルを越えて、日本で最高の女性歌手でした。この美空ひばりさんが、女性では難しいとされた裏声も使うことが出来ました。
 次は楽器のとこです。写真にアップを載せておきましたが、日本の三味線や、雅楽の笙(しょう)に似た楽器が演奏に使われました。演奏は全て男性の役割でした。踊りながらの演奏も披露されました。踊りのほうは特筆するようなことは無かったようです。
 フィナーレは観客からの参加を募っての結婚儀式と、輪になった踊りでした。呉村長さんは、
 「村の若い人が出て行ってしまわないよう、色々と工夫をしたり、努力もしています」
 と、付け加えました。民族の伝統と誇りを失わないため、並々ならぬ苦労もされているようでした。私も心から拍手を送りたい気持ちにさせられました。

<村長の生い立ちと悲恋>
 Enちゃんにポイントを通訳していただいた呉さんの生い立ちと悲恋の話しです。村長さんは、自分の話を聞きながら、ずっと涙を流していた娘さんに、自分の出したCD、DVDをプレゼントされた気の優しい人でもありました。
 村長さんを一人称にして語ります。私のアレンジも入りますので、多少(大分?)違っていても、勘弁してください。文責は私にあります。Enちゃんの通訳には責任が無いことを、予めお断りしておきます。村長さんの昔の許嫁は、ヨウさんとお聞きしたようですが、これは不確かですから、彼女とだけ記載しておきました。
 「私は生まれた時から父の後を継いで、村の長老、村長になることを定められて育ってきました。父が100代村長ですから、私が101代村長になることを、周りの人も、皆期待していました」
 「自慢話ではないですが、小さい頃の私は、いつも学校の試験では、百点満点を取っていました。同じように百点満点を取っていた村の娘さんと幼馴染でした。周りからは、二人は将来一緒になるものと信じられていました。私達もそんな運命を感じ取っていました」
 「小さい頃に、ベトナムでホーチミンさんと面会したことがあります。その時、彼から飴を頂いたことが、小さい頃の一番晴れがましい思い出として、今も鮮明に覚えています」
 「そんな平和な村に、私が中学校の時、大事件が起きました。村長だった父が、封建制の象徴として自己批判を迫られたからです。紅衛兵を先陣とする文化大革命の嵐は、こんな田舎にまで及んできたのです」
 「父だけでの問題ではありませんでした。私自身にも、その嵐が襲ってきました。村人全員が集まった中学校の校庭での集会で、『封建制の象徴である父を批判しろ』との指示があったからです。『そうしなければ、お前も同罪だ』との糾弾でした」
 「友達にも、母にも相談することも出来ず、本当に一人で悩み苦しみました。しかし、この命令には背くことが出来ませんでした。この時ほど、哀しそうな父の顔を見たことがありませんでした」
 「私自身の罪は免れました。しかし、自分を襲った心の葛藤は、どうしようもないくらい深いものでした。やがて、自暴自棄に陥り、学校も疎かになって仕舞いました」
 「結局、17歳の時に村を出て一人放浪する道を選びました。アルバイトをしながらの放浪は、25歳になるまでの7年間に及びました。お金も無かったので、貨物列車に乗っての旅立ちでした」
 「秘かに見送りに来た彼女からは、腕輪を貰いました。『ずっと貴方を待っています』との願を籠めた贈り物でした」
 「身分、出自を隠すため、必死で標準語を覚えました。上海、北京と各地を転々としました」
 「彼女は次々に持ち込まれる縁談の話を断って、ずっと私が帰ってくるのを待っていました。それでも、7年は余りに長すぎました。仕方なく彼女は結婚し、二人の娘さんが生まれました」
 「村へ戻った私は、彼女が結婚したことを知りました。私が帰ってくる直前でした。その後、私も結婚して男の子に恵まれました」
 「彼女とその家族の悲劇は1996年にやって来ました。村を襲った大洪水で、家族全員が死んでしまいました。いつか、返そうと思っていた腕輪も、とうとう、永久に返せなくなってしまいました」
 「彼女へ捧げる鎮魂の歌です。私が作った歌を聞いてください」
 呉村長は、作詞、作曲だけでなく、素晴らしい歌唱力の持ち主でした。時には高く、大きく、時には語るような歌声は、銀水トウ寨の谷間から、遠く天国へまで届いたような気持ちになりました。
 言葉が解せず、要約をお聞きしただけの私でも、深い感銘を覚えました。ずっと涙を流しながら村長の話を聞いていた少女のエピソードは、心から理解が出来ました。
 呉村長は、何冊もの著述と、レコーディングしたCDやDVDまで出されていました。才能が豊かだけでなく、51歳になる現在、大学院で学ぶ努力の人でもありました。

<河畔での昼食>
 トン族の村、銀水トウ寨での見学を終えた後、昼食のレストランは河畔にありました。こちらはチワン族の人達のお店でした。駐車場やトイレも整備されて、観光地として力の入れ具合が見て取れました。
 舗装された道を挟んで、お土産店も軒を連ねていました。ここでは龍背棚田の写真集を買い求めました。ホテルの部屋においてあっ本と同じもので、68元の値段が付いていました。Enちゃんのお手伝いがあって、50元に値切ることが出来ました。
 「龍背・天下絶」のタイトルを持つこの写真集は、李文升さんと文雪山さんのお二人のカメラマンの撮影によるものです。棚田の四季の写真もありましたので、出典を明らかにした上で、この小冊子にも掲載させて頂きました。
 ところで、このレストランには中型犬が何匹もいました。食べ残したものや、骨を上げたら、美味しそうに食べはじめました。しかし、料理には煩いらしく、豚肉や骨は食べても、鳥肉にはそっぽを向いていたようでした。つい、グルメ犬と呼んでしまいました。先住民族の中には、犬を祖先とする神話を持つ部族があり、大切に扱われているようでした。犬の顔つきを見ても、堂々として風格を感じたほどでした。
 食事が終わりかけた頃、このお店の女性の方が揃って歓迎の歌の披露と、振る舞い酒がありました。濁酒に似た酒でした。差し出されたお盆に、小銭をチップとして差し上げました。
 肝心の料理の方ですが、卵をいっぱい使ったお好み焼き風、燻製風の肉類など、申し分の無い味でした。特に野菜類、豆類のしっかりした味は印象に残りました。最後は舌の肥えたワンちゃんが試食をしてくれているのでしょうか?

<ヤオ族の踊り見学>
 この日はトン族、チワン族の人たちに続いて、最後はヤオ族の人たちの踊り見学です。木造の建物の2階に準備されていました。黄洛ヤオ寨と呼ばれる地区です。
 ヤオ族の踊りの見学の前に、いくつかの注意がありました。その1つは、「敷居を踏んではいけません。跨いでください」という注意でした。日本の習慣とも共通するものなので、当然過ぎて不思議な思いがしました。2つ目が、椅子に関するものでした。  「座る前に椅子を拭いたり、吹き払ってはいけません。気になる場合は、座らないでください」ということでした。その他にも「もてなしとして、油茶が出されますが、箸は1本だけにしてください」などでした。変わった風習としては、「足を踏んだり、お尻をつねるのは親愛の情です」と言ったこともありました。
 私が感じたヤオ族と日本の風習の共通性を纏めると、次のようになりました。ヒマラヤ山脈地帯にも、日本人とそっくりの顔つきの民族や、数詞などの言葉までそっくりなケースが知られていますので、このことと重ね合わせて、興味をそそられました。
?1本だけの箸の使い方は、心太(トコロテン)を食べる時と同じ。
?敷居を跨ぐ風習は、完全に共通。
?踊りの中で、日本の「花一匁(ハナイチモンメ)」とそっくりの所作。
?踊りの中で、日本の「押し競饅頭」とそっくりの所作。
?赤い布で花嫁さんの頭を覆うのは、日本の「角隠しの風習」と類似。
?女性が長い黒髪を大切にするのは、日本の古い時代と共通。
?赤い日傘は、日本の番傘と同じ形状。
 等でした。はじめに出された油茶は、雑穀などのようなものも入っており、さして違和感もなくすべて頂きました。もちろん、箸は1本だけです。
 本題の踊りの方ですが、ソロの踊りは無く、全て全員が揃ってのものでした。赤い民族衣装に身を包んだ女性7人組でした。一言で言えば、単調でしたが、素朴な味わい、とも表現できるかも知れません。踊りだけでなく歌唱も披露されました。リードボーカルは全体の司会も兼ねた人でした。この人だけは、皆さんより色が白く、少し垢抜けた風貌をしていました。写真でも直ぐに、この人だと分かると思います。
 余興はヤオ族の結婚儀式と髪結いの実演でした。結婚儀式は、観客の中から2人が代表して、婿役を務められました。私達のグループからも祖父江さんが進み出られました。最後は、参加者飛び入りの押し競饅頭、輪になった花一匁に似た踊りで閉幕となりました。
 踊りの最中に、思い切り腰を隣の人にぶっつける所作もあり、大きな歓声が上がりました。かなり本気で、踊りの輪に入った皆さんは、競り合っていたようです。
 髪結いの実演は、3人の女性の方が見せてくれました。司会の方が幾束かの長い髪を手にして始まりました。髪結いの途中で、本物の髪と一緒に結わえるためのものでした。未婚女性、既婚女性、子供がいる既婚女性では、髪形が違っていることを、ガイドさんの通訳で聞きました。この村のキャッチフレーズは「天下第一長髪村」でした。
 帰りは、出演されたヤオ族の女性の方が出口で見送ってくれました。ここでも、脚を踏まれたり、お尻をつねられたりと、嬌声が上がりました。

<世界文化遺産、龍背棚田見学>
 この日のもう1つのクライマックスは、龍背棚田の見学でした。棚田が見下ろせる場所までは車は入ることができませんので、自分の足で歩くか、輿に乗せてもらって登るかのどちらかでした。 最初は自分で歩こうと考えていましたが、皆さんに合わせて、私も輿を使うことにしました。往復で100元の料金でした。現地ガイドさんが交渉して、話を纏めてくれました。「チップは、その料金とは別に、各自で判断してください」とも付け加えられました。
 輿は竹を使ったものでした。前後を一人ずつで担ぎ、肩に当てる部分には、半割にした竹の表が使われていました。半数余りが女性の担ぎ手なのに驚きました。そ瀬手貰いながら、申し訳ない心地がしましたが、乗らないのはもっと申し訳ないことかも知れませんでした。
 急斜面を、休み休み頂上を目指しました。登りは後ろの担ぎ手の肩に大きな負担がかかるので、その喘ぎ声が絶えず耳に伝わりました。前を担ぐ人は、力を振り絞るためでしょうか、絶えず声を出していました。
 登りは休憩時間を含めて、片道1時間近くかかったかも知れません。見学時間を合わせて1時間半を超えていました。棚田を見下ろす休憩所からは、先程通ってきたトン族の部落も一望できました。800人が暮らす村のようです。
 棚田の標高は800mから900m当たりのようです。麓では田植えが始まったり、耕作をして水を引いた田圃を多く見かけました。この高地では、まだ耕作も水を引く時期でもありませんでした。早春といった山の棚田の風景でした。この素晴らしい景色は、言葉では尽くせませんので、写真の方をご覧ください。少しだけ贅沢を言えば、棚田に水が入った方が絵になるということでした。
 下りは、前を担ぐ人が大変です。私の輿を担いでくれたのは男性一人と女性二人でした。一人で担ぎ通しでは、相当な体力の人でもダウンしてしまうことでしょう。輿に乗っていても、ずり落ちない様に、取っ手にしがみ付くほどの急斜面でした。
 ガイドさんに指示されたようにもとの駐車場付近まで戻ったところで代金を払いました。担いでいただいた3人の中で、一番ご年配の女性の方がリーダーのようでしたから、この方に約束の100元を渡しました。その後で、10元のチップを、「謝謝」の言葉とともに、それぞれ差し上げました。この時、皆さんが満面の笑顔になりました。
 担ぎ手の方は、胴元から輿を借りて、年間契約で仕事をされているようでした。その値段が、年間100元とも聞こえてきました。確かな話しかどうかは、確かめるすべもありませんが、10元のチップを高額なお礼と感じられたのでしょう。
 ただしこの時、チップの概念がトン族の方に理解できていなかったために、現地ガイドさんは苦労をされたようです。何とかチップを貰おうと、食い下がってきた人達がいたからです。ホテルの枕元においていたチップがそのままになっていたことでも、チップの概念が理解されていないことが類推できました。それ程、観光ズレしていない素朴な地域だということでしょう。
 それにしても、1時間半程で100元、日本円に換算して1300円程ですが、この時ほどお金の貴重さを実感させられたことはありませんでした。普段何気なく使っている額ですが、その重たさを再認識しました。

<夜の小宴会>
 Haさんのご提案で、食事の後につまみやお酒を持ち寄って、小宴会を開くことになりました。一人部屋を使っていましたので、私の部屋を使って頂くよう、申し出ました。
 お酒は、Haさんと私がセントレア空港の免税店で買ってきたウイスキーだけで間に合いましたが、気を遣ってビールを手に参加された方もいました。二日目なので、ホテルの部屋の不具合申し出も落ち着いたことから、徐さんも参加されました。一番の問題はシャワーの出が少ないことでした。理由は自然温泉を湯に使っているため、湯垢などが付着して詰まってしまうことでした。これが解決したので徐さんも気が楽になったのでしょう。色々と話が弾んだところで、この日のお開きとなりました。


  トン族、銀水トウ寨で
 髪飾り着けし乙女ら唄い継ぐ声は彼方の人呼ぶ如し

 国乱れ故里捨てて流浪せる語に若き娘涙止ず

 寨長の自ら作し悲恋歌よ谷越え届け山の彼方に

  龍背棚田で
 担れて険き小道登る時喘ぎし声を背中に聞たり

 頂も小さな田圃造たる山の棚田は遅き春待つ

 隙間無き山の耕地は続けども余りに少き里の穫入れ

 駕籠降て僅のお礼差上げぬ弾む笑顔に聴きし再来

【旅行時期】2005/04/22~2005/04/27
【エリア】三江
【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
【投稿者】旅人のくまさん

秋瑾の, 湖南省湘潭での日々を辿る(by 彷徨人さん)

豚肉
      


   わが嘆き われ知るときぞ 夏来たる



  秋瑾、鑑湖巾幗秋瑾女史、と言っても、多くの日本人は知らないのではないか。かく言う僕も、10余年ほど前に、紹興に魯迅の故居
を訪ねた後、ガイドに、秋瑾故居も見学しませんかと誘われ、何者かは知らないままに、訪れた。入って直ぐの部屋の壁に、ひさし髷を結い、白と紫の矢絣の単衣に、紫袴の和服姿の女性が、抜き放った短剣を握っている写真を見つけた。この写真が、日本留学時代の青山実践女学校の制服を着た秋瑾さんだったのだ。最初は、和服姿と、穏やかな理性的な雰囲気に、日本人だと思い込み、日本婦人が何故此処にとの疑問を思いながら、中国語の解説文を拾い読みしていた。帰国後、秋瑾さんに関連する本を読み、積み上げていくうちに、空海さんと並び、“わが中国の旅”の原点となるべき人となったのである。

  我が愛する秋瑾さんは、紹興酒で有名な紹興の挙人の名家に、清朝末期に生まれ、湖南省の富豪に嫁ぎ、二人の子供をもうけ、北京で生活を経て、1904年5月に、夫の反対を押し切って、日本へ留学したのである。当然に当時の良家の子女であるから、秋瑾は悪しき慣習の纏足であった。当時日本では、中国留学生を中心とする清朝打倒への運動が盛んであり、彼女も次第に女性解放と革命への道へと突き進んでいくのである。同郷意識の強い中国では、革命運動もそうした同郷の連携が強く、当時、革命に奔走する留学生の中で、特に、秋瑾さんの実家のある浙江省と、嫁ぎ先のある湖南省出身者も多くおり、当然に、秋瑾も彼らの影響を次第に受けていくのである。革命のための資金を得るために一度中国に戻るのだが(一説では、子供と乳母を連れて留学していたが、革命に邁進するために、子供と乳母を夫の実家に連れ帰ったとの話もあるが)、直ぐに日本に戻ってくるのである。しかし、1905年12月に、日本政府の中国人留学生の取り締まり強化に強く反対して、大勢の留学生と一緒に中国に帰って行った。帰国後は、いよいよ革命運動に本格的に奔走し始めるのである。しかし、1907年6月6日、蜂起は不発に終わり、逮捕され、翌日早朝、故郷紹興の軒亭口で、31歳の若さで斬首の刑に処せられた。それは辛亥革命が起こる4年ほど前のことである。取調べに対して、一切口をきかず、『秋雨秋風愁殺人』(秋雨秋風、人を愁殺す)と、紙に書いただけと言われているが、これは、少し劇的な話ではないだろうか。

  これまでに、留学先の東京はさておき、祖父の任地であり、生まれ育った福建省のアモイ湾に浮かぶ租界地であったコロンス島をくまなく歩き回り、結婚後夫の勤務地である北京の胡同での生活を輪タクに乗り偲び、日本より帰国し、女学校教師として赴任した湖州を春節に訪れ、革命に目覚め、次第に奔走していく姿を、彼女の故郷である紹興の街角で、臭豆腐を肴に紹興酒をちびちびとやりながら、酔いに連れ、幾重にも想像し、杭州は西湖畔に立つ、剣を持ち、彼方を見つめる彼女の石像の前に立ち尽くし、すっかり革命にのめり込み、密かに奮戦する姿を、上海の虹口に捜し求めてきたのだ。

  そこで、今回の旅では、秋瑾の父の任地であり、少女時代の一時期を過ごし、結婚後7年ほど生活し、そして決起直前の1907年に、11歳の息子と7歳の娘との最後の別れに出かけて行った、湖南省の湘潭市にある嫁ぎ先の王家大院と、父の任地のひとつであり、やはり少女時代を過ごした常徳市を目指したのである。

  王家大院は、湘潭市十八総由義巷にあるのだが、今は、周りは比較的賑やかな街であり、尋ねながら近づいたところは、バス通りから少し路地を入ったところに密集する低層の手入れの悪い建物のひとつであった。実は大邸宅であったが、日本軍の空襲で大部分は燃えてしまったと聞いた。それにしても、入り口の軒先には洗濯物が干されており、その入り口の扉は鎖で閉じられている。入り口の壁に、“秋瑾故居”と書いた文字がなければ、朽ちた状況からも、湖南の三大財閥といわれた王家の邸宅とはとても思えない。自転車で走ってきた人に尋ねると、もう何年もこの様な状態だと言う。中国のジャンヌダルクとも言われる秋瑾女史の故居として市が管理している文化財だとはとても見えない。しばらく、この家の前で立って外から眺めていたが、この外人は一体何を見たがっているのだろうと不思議そうな顔つきをして、近所の人は通り過ぎていく。しばらくこの廃墟のような建物の前に立ち、覚悟を決めるために、2人の子供に会いに来た秋瑾さんの気持ちを僕は想像していたのである。ふと見上げると、街路樹の泰山木に真っ白な一花が咲いているのを見つけた。しばし立ちすくむ身に、その芳香が微かに漂ってくるのである。五月闇の中の真っ白な花と仄かな芳香が、この廃墟を思うたび、いつも、とても印象的に思い出されるのである。彼女が処刑されて百年,歴史は遠くになりにけりということなのだろうか。歴史に学ぶということを大切にするこの国の、これもひとつの現実なのであろう。

     





旅なごり 泰山木の 一花に

  その日は、常徳市に宿泊したが、此処では秋瑾の足跡は何も見当たらなかった。翌日は、さらに車で西に向かい、桃源郷を目指した。
  世外桃源の桃源郷は、陶淵明の著した散文『桃花源記』に書かれた理想郷である。昔漢文の授業で始めてその話を聞き、北京の頤和園の長廊にかかる彩画で、始めて目にすることのできた、桃の花が一面に咲き乱れ、香ばしくも、美しくもある理想の村である。いわゆる隠遁思想から生まれた物語なのだろう。しかし、この地の桃源郷は、理想郷とは程遠く、思い出すも惨めな、俗世界であった。

  張家界市は、湖南省の北西部にあって、市の中央部にある“武陵源”が1992年にユネスコの世界自然遺産に指定されてから脚光を浴びてきた。張家界の由来は前漢の功臣張良は、劉邦が次々と功臣を粛清していくのを見て、この地で仙人になったという話から、その様に言われ出したとのことだ。これも白髪参千丈的な話だろうと思うのだが。王維が七言絶句で詠んだ架空の美しい地域をいう“武陵源”は、古生代に地殻変動と風雨の浸食により、作り出された峻険な奇岩台地である。朝起きると、遠くに見える不思議な曲線を描く稜線を見ていると、天上に住む仙人の気持ちとなり、その勢いか、左右の奇峰に見とれながら、ついつい1日二万歩近くも歩く毎日であった。絶壁に造られた世界最大のエレベーター(百龍天梯)に乗れば、次第に広がるパノラマに目を見張り、モノレールに乗り、奇妙な名前が付けられた奇峰の連なる自然の屏風の十里画廊を眺めて行くうちに,次第にこの地に溶け込んでいくのである。張家界の飛行場から見える峰の中央に大きな空洞が見える。それは天門洞だ。嘗てアメリカのアクロバット飛行隊がこの洞門を飛行機で飛び抜けたそうだ。7キロ余のロープウェイを降り、絶壁を走るバスに乗り継げば、この洞門への石段にたどり着く。その何百段の石段を上り詰めたところに、天空に向かうこの洞門があるだ。これこそまさに自然の妙と言えよう。

  張家界は、少数民族の土家族が多く住んでいる地域である。彼らの料理は唐辛子や山椒を多く使い、葛を使った料理が多いのだそうだ。暑くなってくると、中国では特に衛生面での注意が必要となる。この地でも、まずは町のレストランを見に行ったのだが、蝿も多く、なんとなく信頼しがたい雰囲気が漂い、止む得ず、ホテルのレストランで連日食事をすることにしたのだ。


  まずは、ここでも僕は、老酒の『古越龍山10年花雕』を注文。突き出しは、漬物風の『泡蘿蔔皮』(大根の皮のしょうゆ漬けに唐辛子をまぶしたもの)、メイン料理は、いつもの『清蒸桂魚』,スープは、『茶樹?炖龍骨』(お茶の木の茸と豚骨スープ)、それに副食は、『炖藕』(豚骨のだし汁で煮詰めた執拗に糸を引く蓮根)と、『酸包菜炒葛粉』(豚肉のような触感の葛きり入り野菜炒め)、デザートは、『葛根羹』(甘みの残る中華風葛湯)であった。(第49回)

  
表紙写真:天門洞(張家界の飛行場から見える峰の中央に、大きな空洞が見えるが、それが天門洞である)





【旅行時期】2008/05/01~2008/05/08
【エリア】湖南省
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】彷徨人